これは特集「アウトロー」の監修を逆卷しとねとともに務めた編集者・辻陽介による編集後記である。
当初、本特集において私は何も書くつもりはなかった。原稿の執筆は逆卷とともに選りすぐった素晴らしい論者たちに任せ、自分は編集作業に徹し、最後にほんのおまけ程度に逆卷と対談でもして、この特集を閉じるつもりでいた。しかし、できなかった。あてられてしまった。そのいずれ劣らぬ刺激的な論考を繰り返し読み込んでいるうちに、いつのまにか私は勝手に応答責任のようなものを感じ始めてしまった。そして絵が浮かんできた。それぞれの論考に星屑のように散りばめられた《攻殻機動隊》の法-外の点描が、いつしか思考の線描によって結ばれていき、ひとつの星座として結像していくのが見えた。次の瞬間には、私は書き始めてしまっていた。
つまり、これはそれぞれにスタンドアローンに展開されたそれらの論考が「自律しときに相矛盾しつつも相互にゆるやかに繋がり、ひとつの世界観を生成」(小澤京子)させていく運動に突き動かされて筆を走らせた、これ自体もまたスタンドアローンな「編集後記」である。この後記をもって本特集「アウトロー」は晴れて完結する。ここに線を重ね、いまだ誰も知らない《攻殻機動隊》を発見していくこともできるだろうが、それは私たちの仕事ではない。
目次
然るべき距離を隔てて
少佐の腕は細い。一方でその乳房は豊かなどという言葉ではもて余すほどに大きく、臀部もまたくびれた腰のラインを際立たせるかたちでふくよかに出っ張っている。大友克洋監督の『AKIRA』とともにジャパニメーションの国際的評価を底上げした立役者と目されている《攻殻機動隊》シリーズの突出して先駆的な作品世界において、ともすれば凡庸とも評されかねない少佐のステレオタイプな「ナイスバディ」は、いかに原作の発表から35年の月日が流れているとはいえども、いささか悪目立ちしている。「アウトロー」をキーコンセプトに掲げる本特集においても、幾人かの論者から、《攻殻機動隊》シリーズが体制的なジェンダー構造に対して示している保守性についての、忌憚なき指摘があった。
もちろん、ある人物がどのような体型をしているかということは、基本的には遺伝的形質に関わるものだろう。主人公が巨乳だから女性蔑視的な造形であるといった短絡的な評価は、現実に生きるバストが大きい女性の尊厳を貶めかねないものである。しかし、こと《攻殻機動隊》の作品世界内においては、人物の体型を含む身体とは、自分自身の意思においてはどうにもならない先天的な付随物としてあるわけではない。義体技術が発達・普及した《攻殻機動隊》の世界において、人物の身体は、その骨格や肉付き、あるいは性差に至るまで、厳密に選択可能なものとしてある。
とりわけ、幼少期より全身を義体化されていた少佐にとっては、身体とはさしずめアバターのようなものでしかなかったはずだ。だが、そうであるにも関わらず、少佐が選択する義体には上述したような凡庸な偏りがある。この偏向した選択が少佐の強いこだわりのもとになされていることは、少佐が属する公安9課の過酷な任務内容を鑑みれば疑いようがないものだ。公安9課に与えられたミッションの遂行において、少佐の細い腕は明らかに不合理である。事実、映画『Ghost in the Shell/攻殻機動隊』(以下、『GITS』)において、少佐が人形使いを確保すべく戦車のハッチをこじ開けようとした際、その細い腕はたちまち破損し、儚くももぎれてしまう。あるいは、その際立って大きな乳房にしても、対象との肉弾戦において不利になる場合もあるだろうことは、想像に難くない。
それでもなお少佐が「細い腕」にこだわり続ける理由とは何だろうか。作品内ではその理由についてバトーの発言の一部に断片的に示されるに留められており、少佐の胸中における真実は秘せられたままである。ただ、いずれにしても確かなことは、少佐がなんらかの「理由」から、細い腕(に象徴される典型的な女性身体)にこだわらざるをえず、そのこだわりが少佐にある種の脆弱さ、不自由さ、ひいては無能さをもたらしているということだろう。
いかなる理由であれ、その理由が生じる背景には歴史がある。そして、その歴史がある特定の状況をつくりだす。私たちが日頃から感じているままならなさ、不自由さの多くは、私たちがそうした歴史性を伴った状況に埋め込まれているということに起因している。それは全身義体化が可能になった《攻殻機動隊》の世界においても変わることはない。いかに技術が発達しても、その技術が状況からの逃走を可能にするものではないということは、私たちがオンライン空間においてアバターを選択する際に暗に示している不自由さからも想像できるだろう。たしかにオンライン空間においては、物理的な制約を超えて、欲望のままに好みのビジュアルに自己を表象させることはできるかもしれない。それは一面、ある種の自由さが達成されているかのようにも思えるが、その際に選択の基準となっている好みそのものは、その選択の主体が埋め込まれた状況の磁場から決して自由なものではない。言い換えれば、私たちは私たちの好みによってしか、あるいは私たちの欲望によってしか、何かを選択することができないという不自由さを抱えている。あらゆる欲望は、歴史性を伴った状況の磁場において、なんらかの法の制約を受けている。それこそ少佐の不合理に細い腕は、全身義体化技術が私たちにその法の外に出ることを可能にする技術ではなく、私たちがどこまでもその法に隷属していることを確認させる技術でしかないということを、暗示しているようにも思える。
とはいえ、全身義体化技術に象徴されるサイボーグ技術の普及が、私たちの認知や欲望の現体制をただ追認するのみであり、そこにいささかの変容も加えることがないのかといえば、そうとも言い切れないだろう。本特集の松浦優の論考が示唆しているように、素肉は肉より出でて、しかし肉には非らず。生まれもった「天然」の骨肉からなる女体と、交換可能な「人工」の義体によって表現される女体とのあいだには、無視しえない距離がある。いやそもそも、脳以外のすべてのパーツが交換可能な状況において、見た目や性器、染色体で判断される「自然な性」がどのような意味をもちうるというのだろうか。あるいは、そのような状況下においては、シスジェンダーであるということの意味自体が、あらためて根底から問い直されることにもなるだろう。こうした問いの向こう側で、欲望の法をその内側から書き換え、その空隙へとダイブしていく可能性を垣間見ることも、あるいはできるかもしれない(本特集の田崎英明の論考の末尾では、タチコマのアノマリーな性を通じて、身体(質料)にも精神(形相)にも還元されない性の可能性について示唆的に触れられている)。
こうした問いについて、しかし《攻殻機動隊》シリーズは表面的には沈黙を貫いている。草薙少佐にしても、そのセクシュアリティこそバイセクシュアルとして描かれているものの、一方でジェンダー・アイデンティティは一般的なシス女性として描かれており、そこに目立った揺らぎは見当たらない。作品内で強調的に示される「細い腕」へのこだわりや、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』におけるクゼとの関係に見え隠れするどこかロマンチックラブ的な雰囲気は、少佐が義体の下に忍ばせている「素朴な女心」を表現した描写のようにも感じられ、それが先に触れた《攻殻機動隊》シリーズに覚える保守的な印象の一因をなしているとも言える。
だが、そうした《攻殻機動隊》のベタとも言うべきジェンダー表現にも僅かながら綻びはある。例えば、『GITS』の冒頭近くにおいて少佐が発する「生理中なの」という言葉だ。この言葉がある種のジョークであるということは、前後の文脈、また発話のトーンなどからも明らかだ。言うまでもなく、脳以外のほぼすべてが義体化されている少佐には、あらゆる生理現象と同様に、月経はない。つまり、そのとき、少佐はないはずの生理をあえて装い、そこにユーモアを添えているのである。そこから連想されるのは、苛立ちを指摘された際などに「生理中なの」と仰々しく応答して笑いを取るという、おもにゲイバーなどの場で見られる一部のゲイ男性たちにお約束のジョークだろう。こうしたジョークを筆頭とするゲイ男性による「オネエ表現」とは一般に、女性ジェンダーのステレオタイプ的なイメージを戯画的に誇張して表現するものであり、そのひとつの極北として、ドラァグクイーンたちの過剰とも言うべき装飾や化粧が位置づけられる。ゲイ男性によるそうしたベタな女性ジェンダーの誇張は、しかし、必ずしも既存の体制を単に追認していることを意味するものではない。それはむしろ、既存の体制にその内側から毒を仕込むことで自家中毒をあえて引き起こすクィアな実践、撹乱的な戦略としてつとに知られている。そして、そのアンビバレントな毒性を担保しているのが、ゲイ男性が異性愛者に対しておのずから有している、「距離感」である。
夭折したクィア批評家の村山敏勝は著書『(見えない)欲望へ向けて──クィア批評との対話』において、体制的なジェンダー構造を踏襲したようなロマンチックラブ文学を現代において最も楽しむことができる主体はゲイ男性であると指摘し、その楽しみを可能にしているのは「それは私の話ではない」と語ることを可能にする「距離感」であるとしている。彼らは異性愛者でないからこそ、その物語に耽溺してもそれに飲み込まれることがないのだ、と村山はいう。一方で村山はジェイムズ・R・キンケイドの幼児愛をモチーフとする作品にも言及し、それを「おぞましい」と評している。キンケイドの作品は、「我々の文化がたしかに持っていると認めざるをえない幼児への性的欲望を暴きつつ、それに同一化して書かれたもの」であり、成人で、かつ男性であるキンケイドには、「それは自分の欲望ではないと語ることができる隙間」がないからだ。
ドラァグクイーンたちのCAMP的な振る舞いが、体制的な欲望の法制下において、内なる空隙、法-外の場を形成しうる可能性があるのだとすれば(法の内なる空隙、法-外の場の性質については本特集の小澤京子の論考を参照)、その賭金が置かれるのは、体制的なリビドーに対する内的な距離、「私」の欲望が「語られている欲望」と一致しない隙間だろう。その点、全身義体の少佐が立っているのは、すでにシスジェンダーという概念そのものが無意味化した地平である。生物学的な性差をもたないということは、その主体の欲望が、これまで語られてきたあらゆるジェンダー・セクシュアリティを基盤にした欲望とも厳密には一致することがないということだ。少佐が埋め込まれている状況がこの事実とつねに不可分の関係にあるということを考慮するなら、少佐と、少佐の纏う奇妙なまでにボディコンシャスな衣装や、そのステレオタイプに女性的な体躯とのあいだに、ドラァグクイーンたちが自身とその表象とのあいだに有しているような距離感を認めることもできるかもしれない。すると、少佐の抱えている不自由さを象徴しているかに見えたその「細い腕」がもつ意味も、おのずからまったく異なったものとして感じられてこようというものだ。あるいはその細い腕にこそ、表面的には保守性を孕んだ《攻殻機動隊》シリーズを、アウトローかつクィアに読み直していくことを可能にする手掛かりがあるのかもしれない。高層ビルが建ち並ぶ電脳都市の夜景に、誇張された女性的身体のシルエットを鮮やかに翻してダイブしていく少佐の姿には、空隙のリベルタンの虹色の光彩がすでに、ほのかに、明滅している。
ただし、ここでひとつ付言しておく必要もある。欲望との距離感の存在は万能の免罪符ではありえないということだ。ある表現する主体において体制的なリビドーとの内的な距離が十分に取れているかどうかということは、必ずしも客観的に判別しうるものではないからである。クィア理論家のゲイル・サラモンは性別違和の感覚を性的マイノリティのみに限定された例外的なものとしてではなく、誰しもが多かれ少なかれ抱えているものとして捉え直し、それをよりグラデーショナルな連続性において表す言葉として「違和連続体」という概念を提唱している。サラモンの考察に従うなら、主体が体制的なリビドーとのあいだに感じる距離感についてもまたグラデーションが認められることになるだろう*1。すると問われるべきは、ある同一化が欲望の法-外の場を形成することを可能とするためにはどの程度の距離が必要になるのか、というものになる。しかし、その問いに対してはいまだ明快な答えは用意されていない。松浦がフィクトセクシュアル論において提示していた二次元キャラクターの例と同様に、義体が身体のよくできたコピーではなく、それ自体が独立した物質性をもつシミュラークルをなしているのだとしても、出生時には生身の女性だった少佐があえてステレオタイプな「ナイスバディ」を模った義体を装着しているという「見え方」には、一抹の危うさもあるのだ。とりわけ対象が幼児であるような欲望の表現に関しては、そこにいかに物質的な、存在論的な差異があるのだとしても、村山がジェイムズ・R・キンケイドの作品に感受したような「おぞましさ」を拭いきることはできない。
欲望が露出するとき、その欲望にはつねに受け手が存在する。ある欲望の露出に不当な攻撃性があるかどうかを判断する基準を理論的に用意することはできず、その判断は状況の磁場によるしかない。しばしば散見される「これを許容するならあれも許容することになる」といった粗雑な議論は、こうした磁場の存在を等閑視するものであり、それは畢竟、すべての欲望の断罪へと帰結しかねない。そこが法の内奥に開けたわずかな空隙なのか、あるいは法から逃走するその足を搦めとる陥穽なのかということは、くれぐれも慎重に見極める必要がある。
有能で無能な独身者たち
全身義体化技術を別の視点から考えてみたい。
神山健治が監督した『S.A.C』シリーズにおける最も重要なキーワードといえば、言うまでもなく「スタンドアローン」だが、少佐やバトーのように脳以外のすべての部分が義体化された身体とは、今日の細菌研究の見地に立ったとき、字義通りの意味でスタンドアローンな状態に置かれていると言える。
巷間よく知られているように、私たちの身体には無数の細菌が常在している。あるいは、近年の研究成果に照らして言うならば、細菌が私に住まっているというよりも、そもそもの私というものが無数の細菌を含む生物群の共生体、外延の極めて曖昧な「familia」のようなものだとさえ言えるだろう(家族の定義については本特集におけるまどかしとねの論考を参照)。サイエンスライターのアランナ・コリンによると、人間の腸には腸管内だけでも100兆個の微生物が存在しており、海のサンゴ礁のように生態系を形成しているという。そして、その腸内細菌たちは迷走神経と呼ばれる神経回路を通じて大脳とも連絡を取り合っており(脳腸相関)、その宿主の気質や性格、思考にも少なくない影響を及ぼしているという*2。しかし、全身義体の身体にはその細菌たち、私を構成するはずの「familia」が、存在しない。これは多細胞生物史上、類例のないことである。共生家族を失った、あるいは、共生家族が人工的なパーツによって代替された、従来の個体未満の身体。そのときの身体を、存在論的、また生物学的な意味においてもスタンドアローンな、「独身者の身体」と呼ぶこともできるかもしれない(ただし脳死や心停止をして個人の死として捉える死生観が示すように、すでに人間はつねに独身者であったのかもしれない)。
公安9課のメンバーが、義体化していないトグサと荒巻課長を除いて皆、婚姻制度における独身者であるということは、このことと無関係ではないだろう*3。家族をはじめとする共同体の形成を可能にしているものとは、有能さではなく、無能さであるからだ(無能さと共同体の関係については本特集の論者の一人である田崎英明の『無能な者たちの共同体』における考察に詳しい)。およそ共同体と呼ばれるものは、私たちにとってなくてはならないものでありながら、その一方でじつに煩わしいものである。日本的ムラ社会の閉塞性による気苦労は言わずもがな、人の悩みのほとんどは、家族関係や友人関係、あるいは仕事関係を含む共同体における様々ないざこざに起因している。むろん、いかに人間関係が煩わしくとも、ひとりぼっちで生きることは難しい。無能な私たちには単独では日常生活を営むことも、あるいは孤独や退屈を凌ぐことさえもままならないからだ。それゆえに私たちは(同種、異種を問わず)群れる。逆にいえば、もし私たちが充分に有能であったなら、煩わしい思いをしてまで群れる必要はない。
腸内細菌との関係にしてもそうだろう。細菌は私たちが摂取した食べ物を消化することを補助してくれている一方で、時に私たちの身体に不調を起こし、ひどい場合は死に至らしめる。もし私たちの身体が腸内細菌の補助を得ずとも食べ物を消化できるほどに有能であったなら、私たちはただちに腸内細菌との別離を計画し始めるに違いない。たとえその存在が、それまでの私という「familia」を構成してきた、かけがえのないメンバーなのだとしてもだ。
職務上のハンディキャップとなるにも関わらず、トグサが生身の身体を維持している所以も、この「無能さ」にあるのではないだろうか。作中において、トグサは義体化を拒む積極的な理由についてはっきりと述べることはない。言ってしまえば、トグサは「なんとなく」義体化を忌避し、生身の無能さに甘んじ続けているように見える。あるいは、その理由は「なんとなく」というかたちでしか示しえないとも言える。9課の職務内容をふまえれば、義体化の選択こそが論理的必然であるからだ。与えられた任務を的確に達成し、かつ自身が生存する可能性を少しでも上げるためには、無能な生身の身体に留まるよりも有能な義体を手にすることのほうが明らかに理に適っている。その選択はトグサや9課のみならず、トグサが大事にしている家族の利益にも(父親の生存可能性の向上という意味において)また資するものだろう。しかし、トグサはそうしない。あえて旧式の拳銃であるマテバに「好き」という漠然とした理由のみによってこだわり続けているように、トグサは義体化された同僚たちに囲まれながらも「なんとなく」脆弱な生身の身体に立ち止まる。それは義体化によって手にしうる有能さと引き換えに失われる無能さこそが、トグサが大事にしている家庭を、大事であると感じられる感受性そのものの基盤をなしているということを、トグサが直感しているからに違いない。
とはいえ、一方で全身を義体化した有能な独身者たちにもまた、有能であり続けるために抱え込んでしまった無能さがある。作中では、少佐の最高級の義体がその機能を維持するうえで政府による定期的なメンテナンスを必要としていることが示されている。家庭や日々の食事や腸内細菌に依存しなければならない煩わしさ、生身の脆弱な身体のままならない無能さからの自由は、高度な技術を占有している国家や資本への全面的依存という別の無能さとのトレードオフによって得られたものなのだ。あるいはそうした全身義体の独身者たちの姿に、現代の都市生活者の姿を重ねることもできるかもしれない。24時間コンビニが開いていて、ダイヤ通りに運行する交通網が遍く整備されていて、監視カメラによる厳格な防犯体制が隅々まで行き届いている極めて有能な現代都市システムは、人々を煩わしい相互依存のネットワークから自由にし、おひとりさま(スタンドアローン)でも安心で安全に生きていくことができるのだと錯覚させる。だが、そこで手にすることができる自由とは、実のところ、アリアカシアの虜となったアリたちの自由のようなものに過ぎない。複数あったはずの依存先があるシステムに一元化されることで、その主体はそのシステムと命運を共にすることになる。当然その場合、自身の命と繋がれたシステムを維持するために、その従順なる傀儡として、働き続けなければならないことになる。私がどこまでも状況に埋め込まれた存在である以上、いかに抑圧したとしても無能さはかたちを変えて回帰するのだ。あるいは、本特集の田崎の論考によれば、そもそもの「私」という認識が、万能者である天使の時間性(シンクロニー/共時性)から遅れをとっている(ディアクロニー/隔時性)という無能さのうちに立ち上がるものだった。すると、私が「私」という状況を生きることができるのは、私が万能から遅れをとった無能者である限りにおいてなのかもしれない。無能さは、無能であるがゆえに群れなければならないという共同体を可能にする条件というだけでなく、遅れをとる「私がいる」という状況を可能にする条件でもある。
いかに有能さを追求しようとも、私が私である以上、無能さを免れることはない。しかし、その際に抱え込まれる無能さは、元の素朴な無能さとはまた性質を異にしている。無能な者たちの築く関係性が、その無能さを拠りどころとしたケア的、愛情的な関係性であるのに対し、有能であることと引き換えに無能さを抱える者たちの築く関係性は、その有能さを拠りどころとした功利主義的かつ能力主義的な関係性とならざるをえないのだ。義体化率の高い有能な公安9課は、その点において、成員の構成通りに男性中心主義的な性質をもつ。そこで求められているものは、強く、賢く、有能であることであり、またその有能さを支えている高度な義体技術・電脳技術は、資本の戦略、国家の戦略のような、際限なき拡張を目指す父権的原理とも深く結びついている。もちろん、このような批判には既視感もある。人々の暮らしをより便利で快適にし、個人の実存をエンパワメントすると喧伝された新しい技術が、その実、人々をそこに依存させ、扱いやすい傀儡に仕立てたい国家と資本の策謀に利用されているといった批判は古典的なものだ。あるいは、巷間にはそうした批判的言説をチープにした陰謀論も大量に出回っている。そうした粗悪な陰謀論とは明確に距離を取る必要があるとしても、有能さを追求する全身義体化技術が本質的に、体制的な欲望と軌を一にするような、反共同体的、反ケア的、反愛情的な側面を含んでいるということは、否定しようがない。
人々に「有能であれ」と命じる法に支配された状況に対して、素朴な無能さのみをもってして抗するということは難しい。それでは畢竟、「人工」的な技術そのものを否定し、「自然」という言葉に置き換えられた無能さを顕揚するだけの、凡庸な本質主義というまた別種の法の支配に自らを隷属させていくだけだろう。では、いかにすれば「有能であれ」という法の空隙に、内なる法-外の場をつくりだすことができるだろうか。その抵抗の要となるのは、やはり少佐のあの「細い腕」なのかもしれない。すなわち、有能なものがあえて招き入れる、わずかな無能さ。その無能さの「わずかさ」が、「私」が体制的な欲望と完全に同一化してしまうことをギリギリで防いでくれる距離を、隙間を、遅れを、つくりだす。
『イノセンス』におけるバトーが、任務に支障を来たしかねないにもかかわらず、愛犬ガブリエルとの同棲生活を営んでいたことにも同様の理由を見て取ることができる。公安9課の中でも最も義体化が進んでいる少佐とバトー、スタンドアローンの極点に立つ二人の独身者が示す不合理な選択は、トグサのマテバや生身の身体へのこだわりとも共鳴するかもしれない。あるいは少佐による9課へのトグサの引き込み自体が、有能な組織にあえて無能さを招き入れる選択であったとも言える*4。本特集において村上久が述べているように、あるシステムにおいて、「システムの構成員の時間軸がバラバラで、互いに異質な存在であること」には積極的な意義がある。村上は論考で複数の実験結果を示しつつ、そのようなズレ(非同期性)を伴ったゆらぎこそが、ある群れに硬直した安定性とは異なるしなやかな頑健性を付与し、その群れを「群れ」として機能させているということを論証している*5。一方、シンクロニーを生きる万能の天使たちは群れない──群れることができない。ある者たちが群れるためには、私はあなたではなく、あなたは私ではないという状況、それぞれの時間軸がバラバラで、それぞれがそれぞれに特異な遅さを有する、特異な無能者であるということが必要不可欠なのだ。
最先端の義体化と電脳化によって極限まで有能さを高めながら(システムの内奥に喰い込み、そこに深く依存しながら)、しかし同時にわずかに招き入れた特異な無能さによって非同期性をあえて抱え込んだ(体制的な欲望に自らを決して一致させることがないようにズレを含み込んだ)、しなやかで頑健な、攻性の組織。「有能であれ」と命じる功利主義的で能力主義的な法と、民を素朴な無能さに押しとどめる本質主義的で懐古主義的な法とが、その実、ある支配におけるコインの裏表をなしているということは、今般の政治的状況にも如実に表れている。そのいずれの法にも同一化することなく、その支配の空隙を突いて、内なる法-外へと向かう抵抗戦線を率いることができるような群れがもし存在するのだとすれば、かくなる組織をおいて他にないのではないだろうか*6。
本特集の田崎の論考には、哲学者ベルナール・スティグレールの概念「本源的ナルシシズム」に触れた、次のような一節がある。
スティグレールが典型的な時間的対象と考える映画やレコードでは、「私」ではなく誰かの記憶ないし過去が自動的に再生される。その過去を「私」の現在として生きる必要がなくなってしまう。これは私の記憶なのか、それとも他の誰かの記憶なのか。「誰か」から「私」を隔てるための時間が省略されてしまい、「誰か」と「私」が重ね書きされてしまう。これがスティグレールの言う本源的ナルシシズムの危機である
ここで語られている「本源的ナルシシズムの危機」という現象もまた、私たちに群れることを可能にさせている「私はあなたではなく、あなたは私ではない」という状況が消滅してしまうことへの──有能化とそれに伴う均質化によって、その時間軸のズレが垂直にも水平にも失われてしまうことへの、恐れを指すものだと言ってよいだろう。すると、私たちがいきいきと「群れ」るための条件とは、この「本源的ナルシシズム」に耽溺することなく、しかし同時にその充実を図るというアクロバットを実践することだ、とも言い換えられる。少佐の「細い腕」、バトーの「愛犬ガブリエル」は、さしずめ、「本源的ナルシシズムの危機」の奈落に落ち込むキワで手繰りよせたアリアドネの糸だろうか。だが、どうやらそれだけでは、その奈落に張ったタイトロープを渡りきることはできないようなのだ。まだ、足りない。何かが、欠けている。
義体化と電脳化が普及し、それぞれに特異な無能さが薄れつつある《攻殻機動隊》の世界においては、少佐やバトーほど極端ではないとはいえ、誰もが多かれ少なかれこの「本源的ナルシシズムの危機」に、私たちに群れることを可能にさせている「私はあなたではなく、あなたは私ではない」という状況の危機に、瀕している。そして、その危機を誤魔化すかのように、あるいは薄れがかった「私」の輪郭線を繰り返し確認するかのように、その世界ではある言葉が盛んに、いささか呪術的な響きを伴うかたちで、交わされている。
「囁くのよ、私のゴーストが」
編集後記と呼ぶにはすでに長すぎる拙文の締めくくりとして、最後に少しだけその囁きに耳をすませてみることにしよう。
Staying with the Ghost Trouble
公安9課の中でも、とりわけゴーストへの強いこだわりを示しているのは、全身義体化が最も進んでいる少佐とバトーである。《攻殻機動隊》の全シリーズを通じて少佐とバトーが口にする「ゴーストの囁き」は、ひとつのお約束のようなものでさえあるだろう。では、ゴーストとは何か。《攻殻機動隊》の世界では、ゴーストは、生身の「脳」に宿っている「生気」のようなものとして考えられている。それゆえロボットやアンドロイドには理論上ゴーストが存在しない。しかし、少なくとも日常の場面においては、ゴーストの有無は客観的には判別しえない。
『S.A.C 2nd GIG』には、公安所属の検視官が電脳のショートに伴って「白い血」を眼窩から放出した際、「お前、アンドロイドだったのか」とバトーが驚きを示すシーンがある。また、生身の人間としては一度死に、その後、残された電脳データを元にアンドロイドとして複製される、『攻殻機動隊 S.A.C_2045』に登場する9課の新メンバー、プリンは、アンドロイド化されたあとも、生前となんら変わることがない存在として視聴者に感じられるような仕方で描かれている。このように、ある対象に対する「ゴーストがある/ない」という周囲の認識は、その対象の振る舞いの印象に依拠しているのではない。《攻殻機動隊》の世界においてゴーストの有無とは、頭蓋を開いて電脳の状態を確認するか、あるいはそれに相当するなんらかのイレギュラーな露呈がない限り、客観的に判別しえないものとしてあるのだ。日常においては決して目視されることのない、頭蓋の内に「埋没した脳」という身体が、ゴーストのある者とゴーストのない者とに存在を分割する。これは、トランスジェンダー女性の女性専用スペースの使用をめぐって交わされている(疑似)論争の主要な争点が、日常においては決して視認されることのない下着の中の外性器、「埋没した棘」*7の有無に収斂してしまう状況とも似ている。
『S.A.C 2nd GIG』において、「埋没した脳」のないタチコマのゴーストを巡って、不可解な会話が交わされる場面がある。すでに発射された核ミサイルに対し、自身のマザーデータが搭載されている人工衛星を操作して衝突させる、という判断をタチコマたちは自らの意思で下すのだが、この「特攻」に際して、件のアンドロイド検視官が次のような発言をしているのだ。
「君たちにはゴーストが宿っているんだね」
なぜタチコマの自己犠牲的行動がここではゴーストと結びつけられるのか。もしゴーストというものが生物の脳に厳密に紐づけられたものであるならば、ロボットであるタチコマにゴーストが存在しえないことは明白である。あるいは「宿る」という表現を用いていることに注目するなら、ここには本来は決してゴーストをもちえないタチコマが、ゴーストがあるとしか考えられないような自己犠牲による人命救済を自ら決断することに対する、アンドロイド検視官の驚きが示されているだけだとも考えられる。
しかし、そもそも「自己犠牲」は人間に仕える立場のロボットのプロトコルに備わっているはずのものである。その行動選択が目的合理性を有する限りにおいて、自己消滅をかけたミッションを遂行するということは、必ずしも「ロボットらしからぬ」行動とは言い切れないはずだ。あるいは検視官は、タチコマたちが少佐の命令に反して独自にそれを行なっているという点に関して、あのように発言した可能性もある。しかし、そうだとしてもそのタチコマの選択は「人的被害を最小限に食い止める」という公安組織全体が有するプロトコルには反しておらず、そのプロトコルに従って(少佐の命令よりもプロトコルを優先して)ミッション遂行のための可能な行動を選択したと考えることはでき、やはりそれをして「ロボットらしからぬ」行動と言い切るにはいまだ不充分であるようにも思う*8)。
それでは結局、あそこで「ゴースト」という言葉が語られた意味とは何なのか。タチコマの「特攻」シーンは『S.A.C』シリーズにおいて視聴者にとっても最も「エモい」シーンのひとつとして認識されているということは、そのシーンの切り抜き動画があえてYouTubeに転載され、多くの視聴回数を集めていることからも窺える。つまり、視聴者にとってあのシーンは特別に、タチコマへの感情移入を起こしてしまうシーンであったということだ。すると、あのアンドロイド検視官もまた、そのタチコマの行為の「エモさ」にあてられて、上記の発言をしていたとは考えられないだろうか。
確認したように、あの場面においてタチコマたちに「ゴースト」が存在することを論理的に証明することができるだけの要素はない。むしろ、「特攻」の命令に対して、タチコマたちが命惜しさから命令に背いて逃亡を図ったといった場合であったほうがより人情味があり、ゴーストの存在を予感させそうなものである。すると、やはりゴーストの有無について、仮に客観的な判定基準があるのだとすれば、それはその行為や振る舞いから周囲が非論理的に感得する「エモさ」であると考えざるをえないことになる。あるいは「エモさ」という語があまりに呑気に過ぎるというのであれば、それを「それっぽさ」や「もっともらしさ」と言い換えてもよいだろう。
「エモさ」にせよ「それっぽさ」にせよ「もっともらしさ」にせよ、それらは、いわゆるファクトやトゥルースの水準にあるものではない。それはより主観的で、曖昧な判断に基づいたものであり、言うなれば信用可能性の水準にあるものだ。つまり、その対象がゴーストを有していると信じるに足るだけの実感が、あるかどうか。実際のところ、私たちの日常においても、生物としての脳をもたない対象に生気のようなものを感じるということは、それほど珍しいことではない。私たちは子どもの頃よりぬいぐるみや人形に対して生命の手触りを感じてきたし、愛車や愛機といった非人間的な形象をもつ対象に対しても強い感情移入を行ってきた。あるいは本特集で松浦が論じていたフィクトセクシュアルな欲望の存在は、私たちがあらゆる対象をアニメイトし、そこに生気を認めているということを端的に示している。
もちろん、ぬいぐるみや愛車や二次元キャラと、高性能ロボットとを同列に語ることはできない。前者はおもに所有者との私的な関係が問題になっているのに対し、ロボットたちは広く社会的関係に組み込まれた存在であり、だからこそその意図や意思の有無が問題とされているからだ。すると、やはりここでも例の「埋没した棘」のほうに類例を求めるのが良いかもしれない。事実として、今書いたような実感に基づく認識を、私たちはトランスジェンダーやノンバイナリーに限らず、誰に対しても行っている。私たちには日常である人物を前にしたとき、視認することのできない、いわゆる生物学的な性の割り当ての基準である染色体や生殖器の形状とは無関係に、当人のセックスやジェンダーを(意識的、無意識的を問わず)感じるということがままある。そして、その実感に応じたコミュニケーションの作法をそのつど、融通無碍に選択している。その判断がなされる際において基準となるのもまた、埋没していて視認することのできないファクトやトゥルースではなく、そのつどの実感を基にした信用可能性である。
すると、ここで考えるべき点は、タチコマやアンドロイド化したプリンのゴーストの有無をあえて問うことにいかなる意義があるのか、ということになるだろう。ファクトとしてのゴーストの有無の基準が器官としての脳のオリジナル性に求められているのだとしても、日常において人は脳の存在をつねに開示しているわけではない(《攻殻機動隊》の世界ではタチコマのように非人間型の身体を有していても脳だけは生物由来のものであるという可能性はつねにある)。また上述の通り、職場の同僚であっても、誰がサイボーグで誰がアンドロイドかを識別することが困難な《攻殻機動隊》の世界においては、その識別は「それっぽさ」「もっともらしさ」という実感を通じてそのつど、かなり曖昧に行われていることが分かる。たしかに電脳のメンテナンスなどをはじめ、一定の区別が必要とされる場面もあるとはいえ、そうした状況というのはごく限られている。つまり、ゴーストの有無を逐一問うことの合理的な理由は、《攻殻機動隊》の世界にはほぼ存在しないのである。
さらに《攻殻機動隊》の世界には、すでにゴーストダビング(これも所詮は脳のプログラム化でしかないが)と呼ばれるゴーストの複製化技術が存在しており、ゴーストの存在は通常のAIデータと同様に複製可能なものであるとも考えられている。すると、ゴーストの存在は「唯一無二の私」という幻想の支持体としての機能さえもっていないということになる。それにも関わらず、少佐やバトーをはじめ、《攻殻機動隊》の世界に生きる人々がゴーストについて執拗に語りたがるのは、なぜなのか。あるいは、そもそもそのような状況において、ゴーストという概念に残された意義とは、何なのか。
ありていに言えば、ゴーストは人間由来のサイボーグとそうではないアンドロイド/ロボットとを区別するためだけの概念でしか、もはやない。生身の脳の有無というゴースト判定の基準が実践的ではなく、実態のまったく伴わないものであるということは、ここまで見てきた通りである。その基準は区別しえないものを区別するために、その区別をつくり出すためにつくり出された基準、ある種のマッチポンプにもよく似た、言うなれば自己目的化された差異のようなものに過ぎない。
実際に、ゴーストは差別構造をつくり出す。ゴーストがないとされているロボット/アンドロイドは、《攻殻機動隊》の世界においては一般に、「仕える者」として存在している。その「生」はサイボーグたちによって管理され、監視され、使役させられている。タチコマのラボへの返還が少佐の一存で決定されたように、ロボット/アンドロイドは自身の生に関する根本的な決定権をあらかじめ剥奪されている。たしかに《攻殻機動隊》の世界において、サイボーグとロボット/アンドロイドとの関係には友好的な部分もあり、その行動範囲に関しても一定の自己裁量権が認められてはいるだろう。しかし、それは彼らが「奴隷」であるという事実を覆すものではなく、あるいはかなり控えめに表現するにしても、その関係には搾取を可能にする明確な階級差があるということは間違いない。
すると、ゴーストへのこだわりは、ある側面において、この差別構造の維持に関わるものだとも言うことができる。少なくとも、全身が義体化され、ロボット/アンドロイドとの物質的な差異が極めて僅少な少佐やバトーにとって、ゴーストの有無という問いが自身の社会的な位置付けにも関わる、極めて切迫した存在論的な問いであろうことは想像に難くない。少佐が繰り返し口にする「ゴーストの囁き」とは、その意味において、ある種の遂行的発話として考えることができるかもしれない。そこにはもはや明白な差異などないことを少佐は誰よりも知っている。だからこそ、「ゴーストの囁き」を遂行的に言葉にすることで、その差異をつくり出すこと、すなわちゴーストを降霊させることを、少佐は繰り返し試みている。あるいは、少佐の「細い腕」を、この視点から再び捉え直し、少佐によってあえて選びとられた細い腕は、「私」が奴隷であるロボット/アンドロイドと同様に、道具としての使用価値へと還元されてしまうことへのかすかな拒絶、あえて選択されたかすかな無能さを通じて行われる、存在論的抵抗の証であると考えることもできるだろう。
幼少期より全身が義体化され(少佐は世界で最初に全身義体化された子どもであったとされている)、本源的ナルシシズムの危機の中を孤独に歩んできた少佐にとって、ゴーストへの強いこだわりは、少佐自身がこの世界を生き抜いていくために必要不可欠なものでもあったはずだ。それゆえ、少佐が「ゴーストの囁き」を口にし、自らをゴースト保有者であると自認することに対し、倫理的批判を行うことは不当だろう。あるいは前節の末尾で触れたように、程度の差こそあれど、《攻殻機動隊》の世界に生きる人々は誰しもがまた、同じ穴の狢である。曲がりなりにもその世界で、有能であることを命じる法からいくばくか身を引き離し、何とも交換しえず、何にも還元されない「私」として生きていくために、ゴーストという概念に縋らざるをえないのであれば、それは許されるべき無能さというものだ。しかし一方で、もしそれが他者へと向けられたなら、つまり何人であれ他者のゴーストを勝手に査定するようなことを行うのであれば、それは今日言うところのヘイトスピーチへと近似していく。私たちは他人のゴーストに無用な口出しなどすべきではない。ゴーストとはまず、私が、私のものとして感じる、何かであるべきだ。
そうとはいえ、ゴーストを「私だけが感じるもの」、すなわち「自認されるもの」としてのみ捉えてしまったとすれば、それはあまりに孤絶が過ぎている。私たちが群れの中で生きているという現実からも乖離している。それは一方で、つねに関係性の中において、誰かによってそうと信用され、呼びかけられるものでもあるはずだ。そして、その認識の相互性においては、必ずしも自認が先行しているというわけではない。それらはちょうど鶏とその卵のように、前後の定まらない照応関係にある*9。
そのことが端的に表されているのは、少佐とバトーという、ともに義体化の極点において本源的ナルシシズムの危機に瀕する二人が取り結んでいる、奇妙なバディ関係においてである。たとえば『GITS』において、人形使いと融合し、ネットの海へと溶け込んでいった少佐は、その後の『イノセンス』において、自身が自身であるということを、バトーの目に依存することになる。唯一無二の義体のフォルムを完全に失った少佐が、『イノセンス』の段階において、果たして「脳」をもっていたか(あるいは「脳」が保存されていたとしてもそれが意味をなしていたか)はもはや定かではない。すでにあのとき、少佐は、無限にダビングされた、かつて少佐と呼ばれた意識のこだまのようなものとして遍在していたとも言え、仮にそうだとした場合、ネットの海に無限に反響しているそのこだまをあえて少佐と呼ぶことにも、あるいはそのこだまがあえて少佐を自認することにも、積極的な理由は見当たらない。ただ、それでもなおそのこだまが少佐としての輪郭をかろうじて留めているのだとすれば、そこに少佐の存在とそのゴーストをまなざそうとするバトーの強い欲望による呼びかけがあったからこそだろう。だからこそ、『イノセンス』において、少佐はバトーの前にしか少佐としての姿を現すことがない。現すことができないのである。
先に、ゴーストという概念がともすれば差別的概念ともなりかねないと書いた。それはこの世界を生きていくために許されるべき無能さであるとも書いた。しかし、その言葉が少佐とバトーという同じような危機を抱えた二人のあいだで交わされるとき、それらともまた異なったニュアンスを帯びて感じられてくる。私にはそれが、徹底した義体化の末に身体を失った難民たちが交わすケアの言葉、有能にして無能な独身者たちが、その同じさにおいて互いを照応するための、愛の言葉であるようにも感じられるのだ。
本特集の論考において古怒田望人/いりやは次のように書いている。
バトーが少佐に抱く恋心にも似た親密さも、性的差異に基づいた男の女に対する欲望ではなく、全身義体の者同士の類似性に発する欲望と捉えるべきだろう。こう考えてみると、少佐とバトーは、単なる仕事上のバディであるというだけではなく、(シスヘテロな)男性性に閉じられた九課から独立したバディ、つまり異性間の身体的差異に発する親密性ではなく、義体という身体タイプの「同じさ(sameness)」に基づいた親密性に貫かれた、クィアなバディに見えてくる 少佐やバトーが、義体化されていないトグサとバディを組まない、あるいは組んだとしても不調和を起こすのは、義体でない者の前では自身の全身義体の者としての孤独がより一層あらわになるからではないか。それゆえ、彼らを繋ぐ「義体者のよしみ」は、そもそも誰とも分かり合えないという感情に裏打ちされているのではないか。したがって、少佐とバトーの関係は、バラバラなまま繋がっているという逆説的な親密性なのだ
古怒田/いりやが書くように少佐とバトーが「同じさ」に基づく親密さによって取り結ばれているのなら、その二人のあいだで、本来、個体の差異を強調する概念である「ゴースト」という言葉が交わされるということは、どこか相応しくないように思われるかもしれない。だが、松浦がその論考においてレーン・ウィラースレフを引きつつ示していたように、「完全な同一化ではない共感には、自分と相手の差異が不可欠なのである」。区別しえないものを区別するために、その区別をつくり出すためにつくり出された、差異。その差異のありかを表すゴーストという言葉はしかし、その彼方に同じさを見据えて語られるとき、憎悪の響きではなく、愛情の響きをもってこだまし始める。
古怒田/いりやが論考において参照していた哲学者のレオ・ベルサーニは、エッセイ「Sociability and Cruising」において次のように述べている。
差異はおそるべきものではない。同じさの補遺として愛されるだろう*10
そう、それはもはや、おそるべきものではないのだ。
ここで振り返りたい。本特集アウトローをめぐるこの後記は、いくつかの「欠かせなさ」をめぐる考察でもあった。ひとりぼっちでは生きていけない私たちには、いきいきと群れることが「欠かせない」。いきいきと群れるためには、あなたではない私と、私ではないあなたの存在が「欠かせない」。あなたが私ではなく、私があなたではなくあるためには、距離が、隙間が、遅れが、無能さが、ひいては差異が、「欠かせない」。だから、「ゴーストの囁き」にはいつだって、「私の」という冷たい所有格が添えられ、「あなた」から「私」を孤立させてきた。スタンドアローン。有能で、無能な、独身者。
一方で、私たちには、差異が「欠かせない」という状況において、その「欠かせなさ」を共有することはできる。状況から逃れられない無能さにおいて、私たちはその無能さの「同じさ」を感じることはできる。そうした「同じさ」に基づいて、私たちはスタンドアローンのまま、異形の「親密性」を取り結ぶことはできる。そのとき、「あなた」と「私」を冷たく分かっていたその差異ゴーストは、もはや「おそるべきものではない」。それは「私」が親密さを感じている「私」と同じものに、囁くような声で「あなた」と呼びかけることを可能にしている「同じさの補遺」として、愛されうる。
今日、私たちを当惑させ続けているセックスやジェンダーのような概念も、《攻殻機動隊》の世界におけるゴーストと同じなのかもしれない。それらは時として私たちを分断する差別構造をつくり出す概念でありながら、時として私たちがこの世界をどうにかともに生き抜いていくための護符ともなりうる概念である。ヘイトとケアの狭間で、私たちを翻弄するゴーストの囁き。このゴーストトラブルを真に克服するためのみちしるべは、《攻殻機動隊》には描かれていない。そこで描かれているのは、つねにすでに生じているゴーストトラブルに巻き込まれながら、そのままならぬ細い腕をよすがにアウトローとしてこの世界を生き抜こうとしている、「有能」で「無能」な私たちサイボーグの是も非もない生の実践──終わりのない逃走の軌跡である。
[註]
*1
なお、サラモンの「違和連続体」という概念は、トランスジェンダーやトランスセクシュアルの経験がつねに「心の問題」へと還元され、それゆえに病理化されてきたという歴史に対する批判の中で提唱されているものである。この点に関しては、参考文献内に示したサラモンの著書、あるいはインターネット上でアクセスできる論文として藤高和輝による「感じられた身体──トランスジェンダーと『知覚の現象学』──」(2019年)が参考になる。
*2
例えば、コリンはカナダのオンタリオ州にあるマクマスター大学の研究チームが行なったある実験を紹介している。その実験において被験体となったのは、勇敢なマウスと臆病なマウスという対照的な気質を示していた二匹のマウスだった。研究チームはその二匹のマウスの腸内微生物を入れ替えた。その結果、二匹のマウスの気質は反転した。
*3
なお荒巻は物語のはじまりにおいてすでに離婚しており、トグサもまた最新シリーズ『SAC_2045』においてはすでに離婚している。このタイミングでなぜトグサが離婚したのかという問いはじつに興味深いが、その考察は本稿の射程から外れるため、ここでは割愛する。
*4
法-外への摺り抜けを可能にしうる「有能なもの」たちの「わずかな無能さ」をめぐるこの話を、本特集の小澤京子の考察に接続することもできるかもしれない。小澤はその論考において、アウトローについて「法の完全な外部に確固として自律するのではなく、法の境界に位置し、しばしばそれに抵触したり、すり抜けたり、あるいは共犯関係や「見逃し」というかたちで共存(ないし寄生)したりするのがアウトローである。そもそも法の存在しない完全にアナーキーな場には、アウトローも存在しえない」と述べており、これは「有能であれ」と命じる法に対して素朴な無能さをもって抗するということが、そもそも抵抗たりえないという本稿の指摘と重なる部分がある。また小澤が別箇所で行なっている「リベルタン的ともいえる法-外のラディカルな自由は、アウトロー的とはいえ基本的には「法の執行者」である公安9課のメンバー、とりわけ草薙において、その「法の執行」の過程において到来する」という指摘は、公安9課で最も「有能であれ」という法に忠実に生きてきた(生きざるをえなかった)少佐が、その体躯に意図的に選び取った「細い腕をもつ女体」のアウトロー的なポテンシャルを考えるうえで、非常に示唆的である。
*5
村上が今回の論考で紹介していた研究はいずれも単独種の群れを対象としたものである。だが、群れというものは、(その定義次第ではあるが)必ずしも単独種によって形成されるものではなく、時として(あるいは見方によってはつねに)複数種によって形成されるものでもある。例えば霊長類社会学者の足立薫は、西アフリカの熱帯雨林に暮らすダイアナモンキーが異種たち(アカコロブス、オリーブコロブス、ダイカー、トゥラコなど)とのあいだに形成している「混群」について報告している。また、進化論学者リン・マーギュリスの提唱する「ホロビオント」とは、複数の異なる生物種が共生関係 (symbiosis) にあり、不可分かつひとつの全体を構成している状態を指すものであり、そのひとつのモデルとしてサンゴと褐虫藻の共生関係がつくりだすサンゴ礁が挙げられている(混群とホロビオントについてはいずれも亜紀書房の雑誌『たぐい』vol.3所収の逆卷しとねと足立薫の対談「すべてがサルになる──種社会論とダナ・ハラウェイが出会うとき」を参照)。村上の研究が、こうした種間関係の分析にも応用可能であるかどうかは、筆者には判断することができない。だが、村上が示した非同期性と相互予期を軸とする群れの生成モデルは、あくまでも筆者の直感において、世界そのもののダイナミクスを考えるうえでの有効な知見となりうるように思う。
*6
小澤は本特集の論考において公安9課を「法の執行者として国家権力の制度に属しつつも、その境界線に抵触し、その外部へとはみ出してしまう、空隙に潜む存在である」と言い表している。だが一方で、私たちの暮らす現実世界においては、草薙少佐のイラストが警視庁のサイバー犯罪の防止を呼びかけるポスターに使用されるという、極めてアイロニカルな事態も発生している。公安9課が体現するようなリミナルな群れのポテンシャルを認識しつつも、その存在を手放しに顕揚するこということには、また危うさもある。リミナルであるということは、薄皮一枚を隔ててどちらにも転びうるという不安定さをも抱えるということだ。私たちはくれぐれもそのことを忘れるべきではないだろう。
*7
清水晶子「埋没した棘:現れないかもしれないクィア・ポリティクスのために」『思想』岩波書店、2020年3月号を参照。
*8
あるいは、タチコマの「特攻」がロボット三原則の第三原則「第1原則(人を傷つけてはならない)に反しない限り自分自身を守らなければならない」に反しているということをもって、タチコマに「ゴーストがある」としか考えられないという消極的な判断がなされたと解釈することも可能だろう。その真っ当な解釈を否定するつもりはないが、アウトローに《攻殻機動隊》シリーズを読み直すことを目指す本稿では、その立場はあえて取らない。はたして、件の「特攻」が本当に第三原則に反するものであったかどうかについて、別の解釈を行うことも可能であるように思うのだ。例えば、目の前で子どもが自動車に轢かれそうになっていたとして、その救出のためにロボットが自身が破壊されるリスクを背負って救出を行い、結果的に破壊されてしまったという場合、これは第三原則に反すると必ずしも言えないのではないだろうか。件の「特攻」シーンにおいては、大きな目的は核ミサイルの撃墜(それによる人命救出)だった。そのうえで、あらゆる選択肢を考慮した結果として消極的に出された結論が、人工衛星を操作し、核ミサイルに衝突させ、その撃墜を試みるというものだった。その際、タチコマたちにとって「自己」の「損壊」とは、ミッションの遂行に付随する、ひとつの予期された結果に過ぎない。たしかにそれは「自己犠牲」ではある。だが、ある定められた目的合理性に基づいた「自己犠牲」による「自己損壊=死」と、いわゆる突発的な「自壊=自殺」(たとえば『イノセンス』におけるセクサロイドたちの自壊行為のような)という行為のあいだには、一定の懸隔もあるだろう。あるいは、戦闘ロボットはその任務においてつねに自己損壊のリスクを背負ってもいる(対象を殴るということは拳を損壊させることである)。戦闘の場においては、ある行動が「盾」を意味するのか、「矛」を意味するのかということの境界線も極めて曖昧であるだろう。そうしたことをふまえれば、タチコマの「特攻」(あるいは「特防」)についてもその連続性において、つまり通常のプロトコルの範囲内にある行動として捉えることもできるのではないだろうか。なお、付言しておくが、このように書いたからといって、筆者はタチコマにゴーストが宿る可能性を否定したいわけではない。むしろ、筆者は件のシーンを視聴した際、大いに落涙したし、そのとき、たしかにタチコマにはゴーストが宿っていると感じられた(ところで、この意味において筆者は、あの場面で問われるでもなく「ゴースト」について言及した検視官アンドロイドのほうにより、AIらしからぬ「エモさ」を感じていた)。この箇所で強調したかったのは、筆者も共有している「タチコマにゴーストが宿っている」という実感は、必ずしも論理的に裏付けることができるものではなく、それにも関わらず、私たちにはそうとしか感じられないという、まさにその状況についてだ。そしてもうひとつ、そもそも私たちが人間の行為に対して「エモさ」──「ゴースト」を感じているときも、その内情に有意な差はないのではないだろうか、という『イノセンス』のテーマとも通底する問いについてだ。
*9
ここでいう「誰か」とは必ずしも実在する他者である必要はない。重要なのは、ある主体がそのようなものとして自分がまなざされている、呼びかけられている(あるいはゴーストにちなんで「囁きかけられている」と言うこともできるか)と実感していることである。筆者はあらゆる「名乗り」とはこの「呼びかけ」と同時か、あるいは「呼びかけ」に遅れて行われるものだと考えている。そして、その「名乗り」が別のものによる「呼びかけ」を再び呼び込んでいく。「自認」という概念を独我論的なトートロジーに陥らせず、そこに本来含まれているだろうと筆者が考える「相互性」についてを考えるうえでは、以下の「規範への関連づけ」をテーマに書かれたキャサリン・ジェンキンスの論文「Toward an Account of Gender Identity」(2018年)が参考になる。
*10
原文は、“difference can be loved as the non-threatening supplement of sameness.”。使用した訳文は村山敏勝の翻訳によるもの。
【参考文献】
●田崎英明『無能な者たちの共同体』未來社、2007年
●村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて──クィア批評との対話』人文書院、2005年
●レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス『親密性』檜垣立哉、宮澤由歌訳、洛北出版、2012年
●アランナ・コリン『あなたの体は9割が細菌』矢野真千子訳、河出書房新社、2020年
●ゲイル・サラモン『身体を引き受ける:トランスジェンダーと物質性のトリック』藤高和輝訳、以文社、2019年
最後にひとつだけ——。本特集の編集も佳境に差し掛かろうとしていた2023年12月16日、私の友人が亡くなった。享年36歳、私と同じ編集者だった。亡くなる1ヵ月ほど前に、彼女は入院先だった病院から、私が美術家の大小島真木とともに制作した映像作品に寄せて、一編の文章を送ってくれていた。その文章において彼女は、大都会の病院の中で、人工チューブに繋がれることでかろうじて延命しているサイボーグのような自分が、それでもなお「自然な生」を憧憬せざるをえないという心情を赤裸々に綴り、そのことがもつ意味についてを問いかけていた。この後記の執筆中、私の脳裏ではずっと、彼女の残したその問いがこだまのように反響し続けていた。塚田有那さん、このささやかなエッセイをもって、あなたの最後の問いかけに対する、私からの応答とさせてほしい。うまく応えられているかは、分からないのだけれど。
つじ・ようすけ/1983年、東京都生まれ。編集者。文筆、映像、美術など多領域・多手法において制作活動を行う。Webメディア『DOZiNE』編集人。大学中退後、SM雑誌の編集者を経てフリーランスに。以降、『STUDIO VOICE』をはじめ複数の雑誌、書籍の編集、執筆に携わる。近年は美術家・大小島真木とのアートユニットにおいて各所で展覧会を開催。座右の銘は「何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」。