山内祥太《Tina growing》2022
台湾には肉を模倣してつくられた「素肉」というものがあるらしい。出自からすれば、素肉を好んで食べる習性も肉食への欲望に根ざしていたことだろう。けれども、素肉料理が発達し素肉愛好家も増えていくとき、はたして、素肉を愛する者の欲望は、肉を愛する者のそれと同じままでいられるのだろうか? 素肉愛好者に特有の欲望は認められないのだろうか?
近親相姦以前に同性愛が禁止されている、というジュディス・バトラーによる批判以来、異性愛規範の相対化は、少なくとも理論的には進んできた。しかし松浦優が、二次元キャラクターに向けられた性愛、フィクトセクシュアルを俎上にのぼらせるとき、欲望の多様化が未だ対人性愛の範疇にとどまっていたことを思い知る。すなわち、対人性愛中心主義の世界の中で、私たちの欲望が二次元キャラクターに向かう可能性は予め排除されている。排除に気づくとき、問いが始まる。
二次元キャラクターといえど人間をモデルにしている。だからそれを愛する者たちも実生活においては対人性愛規範に基づいた欲望を育むことを期待される。けれども、フィクション上のキャラクターが増殖するに従い、そこに向かう欲望は独自の性質を帯び始める。やがて愛好者たちは排除された欲望の所在に気づく。松浦が焦点を当てるのは、キャラのつくり手ではなく、対人性愛の掟の門の前に立つ受け手の欲望である。人間が非人間的対象を欲望するとはどういうことなのか、それはどのようにして可能となっているのか、その欲望の機序へと筆鋒鋭く迫っていく。義体化・電脳化技術が普及し、人間の人間性がますます希少になっていく《攻殻機動隊》の世界において、人間には向かわない欲望はいっそうアクチュアルな問題として浮上するに違いない。
目次
山内祥太《Tina_growing_Other 01》2022
対人性愛中心主義という問題提起
架空のキャラクターに性的な魅力を感じるセクシュアリティを表す言葉として、「フィクトセクシュアル」という用語が使われるようになっている。近年ではAIやロボットなどの技術的人工物を対象とする性愛について議論が蓄積しつつあるが、フィクトセクシュアルはそうした議論に関連して言及されることがある。たしかにフィクトセクシュアルの人々の中には、自身の愛するキャラクターがAI技術によって具現化されることを望む人もいる。しかし架空のキャラクターは、こうした技術が成立する以前から生み出され続けてきたものであり、それゆえ技術の進歩を必要条件とする存在ではない。
それにもかかわらず、AIやロボットと人間との関係は、あたかも技術的ブレイクスルーによって突如としてまったく新しい問題を引き起こしているかのように論じられる傾向にある。もちろん新たな現象もあるかもしれないが、しかし人々はもっと以前から事物や人工物と関わりながら生きてきた。そうであれば、近年の人工物について考える際に、あえていったん技術に関する問いを棚上げして議論を始めることにも意義はあるはずである。
私はこれまでに、マンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間には性的魅力を感じないという人々に対して、インタビュー調査を行なってきた。その調査の成果をふまえ、二次元をめぐるセクシュアリティが生身の人間を対象とするセクシュアリティとは異なるものとして成立している昨今の現象について、クィア理論を応用した研究を行なっている*1。本稿では、私のこれまでの研究成果を下敷きにして、二次元キャラクターの存在とその政治性について検討する。そのうえで、いったん宙吊りにしておいた、AIやロボットなどの技術的人工物をめぐるジェンダー/セクシュアリティの論点に立ち返ることにしよう。
本題に入る前に、セクシュアリティに関する規範性をめぐる問題について、少しだけ紹介しておきたい。近年の研究では、異性愛規範だけでは説明できない問題についての議論が蓄積しつつある。その中には、性愛の対象は生身の人間である、という固定観念への批判がある。例えば対物性愛の研究では、そのような「人間との性的関係は無生物と関係することよりも望ましい、あるいは自然であるという信念」が人間性愛規範(humanonormativity)として概念化されている(Motschenbacher 2014: 57)。
日本でも、二次元の性的創作物は愛好しつつ、生身の人間には性的に惹かれないという人々の立場から、生身の人間へ惹かれるセクシュアリティを指す「対人性愛」という用語が草の根的に提起されている。さらには、生身の人間を性の対象とすることを「正常」なセクシュアリティとみなす社会規範が、対人性愛中心主義と呼ばれている。本稿ではこのような近年の性愛をめぐる問題提起を念頭において議論を進めていく。
山内祥太《Tina_growing_Other 02》2022
嘘と創作の区別: 真偽の問題と存在論の問題
二次元キャラクターについて考えるうえでは、まずフィクションという概念の射程を整理しておかなければならない。「現実とフィクションを区別しましょう」とは言われるが、ここではむしろ嘘とフィクションの区別が重要である。あるいは嘘と創作の区別と言ってもよいだろう。「つくり物」や「フィクション」という言葉はしばしば「嘘」の言い換えとして用いられることがある。嘘と創作は、言語上はとても混同されやすいものだが、しかし私たちは日常生活の中でこの二つを感覚的に区別している。まずはこの区別を確認しておきたい。
嘘とは、事実ではないことを述べる言述である。そこで問題となるのは「事実か否か」だ。要するに嘘は真偽の問題なのである。また、嘘がうまく通用するのは、相手が騙されたときである。うまく嘘をつくためには、嘘をつかれた相手に「嘘を言われた」と悟られないようにしなければならない。例えば、《攻殻機動隊》での主要なテーマは真偽の問題系である。ゴーストは本当にあるのか、自分は本当に人間なのか、自分の家族は本当にいるのか……これらはいずれも真実か虚偽かを問うものであり、また誰かに騙されているかもしれないと案じるものである。
これに対して創作活動は、現実(あるいは日常生活世界)に属さないタイプの存在物を生み出す行為である。創作物を受容するという経験が成り立つためには、受容者は自分の観ているものが現実とは異なる創作物であるということを認識していなければならない*2。例えば草薙素子というキャラクターは、人々の創作行為によって生成する、ある種の人工物であり、生身の人間とは存在論的に異なるカテゴリーに属するものである。フィクションと現実は存在論的に異なるという存在論の問題を、《攻殻機動隊》を受容する人々は明確に認識している。このように、真偽の問題とフィクションの存在の問題は異なるものである。
これに加えて、議論の混乱を招きがちなもうひとつの問題として存在感の問題がある。これは、ある対象がありありと存在しているように感じられるかどうかという問題であるため、現前感の問題と言い換えてもよい。私たちは日常生活世界にある事物だけでなく、架空の存在者にも現前感を抱くことができる。例えば私たちは、架空のキャラクターがありありと生きて存在しているように感じることがある。この現前感は、個々人の想像によって生じるだけでなく、例えばVRや立体音響によって技術的に生み出すことも可能である。
以上をふまえたうえで本題に入ろう。架空のキャラクターという存在者はいかにして「生」を獲得するのか。言い換えれば、人間とは異なる──さらに言えば、意識や内面を獲得するための生物的基盤も技術的基盤ももたない──存在者は、いかにして生き生きと現前するようになるのか。
模倣的共感: 架空のキャラクターという存在者はいかにして「生」を得るのか
まずは生を宿すための実体がなければならない。原理的にはキャラクターは視覚的な存在でなくてもよい。例えばキャラクターは、音声表現によって生み出されることも可能であり、あるいは当該キャラクターをめぐる情報の束として存在することも可能である。しかしいずれにしても、キャラクターがより強固な存在感を獲得するためには、創作行為によって表現される必要がある。そして表現には何らかの物理的な媒体がなければならない(単に頭の中で空想するのであっても、そこには空想する人間の身体が存在する)。表現はつねに物質的なものなのである。
だからこそ、キャラクター論では創作行為や表現様式への注目がなされてきた。詳述はしないが、例えばマンガ研究においては、同じキャラクターの新たな図像を繰り返し描き続けることによって、そのキャラクターの新たな側面を提示し、物語世界内に時間幅を生み出し、キャラクターに時間幅のある生を与えるという議論がある(e.g. 岩下 2013)。あるいは、物語世界の制作だけでなく、多くの人に二次創作されることによってキャラクターの存在感が強固に確立されるという議論もある(e.g. 足立 2020)。キャラクター論の潮流を一言でまとめれば、図像的キャラクターは物質的な描出行為によってパフォーマティブに構築されるということだ。
とはいえ、描出行為によって生み出される物質的な表現物というだけでは、それはまだ「単なる絵」(あるいはアニメであれば、「単なる絵」の連続的な切り替えや、スクリーンの明滅)にとどまる。ここまでの議論で説明されているのは、二次元キャラクターの外形的形態が生み出される経緯だけだからだ。内面をもつための生物的基礎も技術的基礎ももたない、図像やイメージとして存在する二次元キャラクターに、どのようにすれば内面をもたらすことができるのか。どのように二次元キャラクターに魂は吹き込まれるのか。これを説明する理論が、泉信行による「心の模倣」論とレーン・ウィラースレフによる「模倣的共感」論である*3。前者はマンガ読者の心の動きに関する研究であるのに対して、後者はシベリア・ユカギールのアニミズムに関する人類学的研究であり、まるで研究領域もテーマも異なる。しかし両者はいずれも人間以外の存在に内面を帰属させる方法を論じており、しかもほぼ同じ理論を提示している。
まずは泉の「心の模倣」について見ていこう。「心の模倣」とは、自己投影や感情移入とは異なり、マンガや小説を読む際に「自分をキャラの中に投げ込むのではなく、(理解できる範囲で)キャラの情動を自分の中でつくり出す」現象のことだ(泉 2014: 145、強調引用者)。泉は「マンガや小説の二次元内に情動の実体があるはずもなく、読者の心身がその情動のシミュレーターになっている」(泉 2014: 145)と指摘している。「心の模倣」は、情動や感覚などの内面を生じさせるための実体をもたない存在に内面を与える。キャラクターに生を生み出すためには、つくり手の描出行為だけでは足りず、受け手による「心の模倣」という情動的実践が必須になってくるのである。
人類学者のレーン・ウィラースレフは、マンガ読者の心の動きに関する理論と似通った理論を提示している。ウィラースレフはシベリアの狩猟民ユカギールのアニミズムに関するフィールドワークをもとに、ユカギールの人々が人間以外の存在に内面を帰属させる仕方を論じている。それが「模倣的共感」である。
アニミズムにおける内面性は、モノに内在する性質ではなく、人々とモノの「関係の中で、およびその関係をとおして、構成される」(ウィラースレフ 2018: 43-4)。ウィラースレフは、ユカギールの人々が狩猟対象である動物たちに、(法的な人格概念とも哲学・倫理学的な人格概念とも異なる)いわゆる内面や魂に相当する「人格性」を帰属させる仕方を、模倣(ミメーシス)と呼ぶ。ミメーシスは「アニミズムの実践的側面」であり、アニミズムの「前提にして不可欠の条件」である(ウィラースレフ 2018: 314)。ウィラースレフの言う模倣は、正確には「模倣的共感」と呼ばれている。模倣的共感とは、表面的な真似ではなく、「豊かな想像力によって、自分自身を他者の領域に入り込ませる能力、自らの想像力の中に他者のパースペクティヴを再生産すること」を含む実践である(ウィラースレフ 2018: 179)。したがって「模倣的な共感は他者のパースペクティヴへの入り口」とも言われることになる(ウィラースレフ 2018: 182)。
特筆すべきは、模倣的共感は同一化とは異なる、というウィラースレフが強調している点である。共感は「他者の経験が私のものではないから」こそ生じるものであるため、「私の経験と他者の経験の間の境界が消えることはない」(ウィラースレフ 2018: 182-83)。完全な同一化ではない共感には、自分と相手の差異が不可欠なのである。
ウィラースレフはアニミズムを考察する際の補助線として、ハリウッドのラブコメディを観る人々の例を挙げている。この例は本稿にとってとりわけ示唆的だ。ラブコメディを観るとき、観客はキャラクターへの「共感を通じて、我々は自分自身の世界を離れて映画のキャラクターの世界へと組み入れられ、愛のための彼らの願望を、すべてのことを愛のために犠牲にする傾向を、できるかぎりその通りに経験し始める」(ウィラースレフ 2018: 176)。もちろん模倣的共感は、他者への同一化によって完全に我を忘れるわけではないため、「コントロールできない愛の感情」とは区別される(ウィラースレフ 2018: 182)。模倣的共感は、あくまでも「他者の特定の身体の状態や感情や条件を選び出し、それを私の想像力の中で再生産する」ものなのだ(ウィラースレフ 2018: 182)。
論じている対象は違っても本稿の関心に照らせば、ウィラースレフの模倣的共感論は泉による心の模倣論と同じ方向を向いている。ウィラースレフがラブコメディを例にとるのと呼応するように、泉も自身の理論がとりわけ「恋愛もの」や「ポルノ作品」の受容を考える際に重要となると論じており、この点から両者の近さがさらに読み取れる。マンガの登場人物の「感情」や「感覚」を理解して享受する際には、読者が対象に向かって自己投影や感情移入をする必要はない。「恋心の模倣は「自分自身がキャラに惚れる」必要もなければ「キャラになりきる」必要もない」のである(泉 2014: 145)。だからこうした作品を楽しむには、「攻め」と「受け」のどちらか一方のみに没入するのではなく、どちらの気持ちもわかることが重要になる。泉が批判するように、「攻め」に感情移入するか、「受け」に感情移入するか、そうでなければ俯瞰的に客観視しているか、という相互排他的な三択は実際の作品受容経験に即さない。主体が想像力を駆使して対象の情動を模倣すること、これこそが非‐人間に内面を帰属させる方法であり、二次元キャラクターに魂を吹き込む(アニメートする)方法なのである*4。
ただし、泉とウィラースレフの理論を相互参照できるということは、二次元キャラクターを愛好する人々がアニミズム的な信念や慣習の埒内にいることを含意しない。ユカギールの営為と二次元キャラクターをめぐる実践は別物であり、模倣的共感を除けば共通点はほぼない。さらに二次元キャラクター(やAIやロボット)を愛好することをアニミズムと結びつける発想は、「テクノアニミズム」論のような誤った日本人特殊論に陥りがちである*5。
そしてもうひとつ注意点を付け加えておくなら、模倣的共感は二次元表現の固有性を説明するものではない。模倣的共感は、マンガ読解だけでなくハリウッド映画受容やアニミズム的実践など二次元・三次元を横断する多岐にわたる局面で行われるものであるため、二次元をめぐる営為に限られるものではない。二次元について考えるためには、二次元の物質性を別途考察しなければならない。
当然ながら、二次元キャラクターは生身の人間とは異なる仕方で存在している。それは、大塚英志が「記号的身体」と呼ぶような、絵や記号を身体としてもつ、ある種の抽象的な存在である(もちろん形而上学的には、「実際には存在していないが、あたかも存在するかのような効果をもっている」という立場もあるだろうが、人々の実践を考えるうえでは「存在する」でも「存在するかのような効果をもっている」でもどちらでもよい)。だが重要なのは、記号が物質的なものだということである。もともとは人間を指し示す記号として制作された絵が、受容者の模倣的共感によってアニメートされることによって、「二次元キャラクター」という新たなカテゴリーの存在者になる。このような事態が生じるのは、記号による描画的表現がつねにインクや誌面や画面といった物質に支えられているため、受容されるときに(記号が指し示す非物質的で抽象的な対象ではなく)その物質それ自体がアニメートされるからである(松浦 2023)。
制作と模倣的共感のあいだで生じる誤配は二次元キャラクターという存在を成立させるだけでなく、二次元キャラクターを享受する人間の側にも変容をもたらす。それが、人間同士のあいだに働く性的欲望とは異なる、二次元への欲望が成立するという事態である。つまり、二次元キャラクターという新たなタイプの存在が生み出されるとともに、人々の知覚や欲望のあり方もまた書き換えられるのである。このような存在論的かつ認識論的な変容として、「当たり前」で「ノーマル」だと考えられてきた対人性愛を相対化する、ある種のクィアな攪乱が生じうるのである*6。
とはいえ、二次元キャラクターの受容の際に働く欲望を、対人性愛と同一視する傾向は依然として根強い。対人性愛中心主義的な文化においては、二次元と三次元の違いは実質的に意味のないものだとみなされ、二次元をめぐるセクシュアリティは不可視化されてきた。この点について、台湾のフィクトセクシュアル研究者・アクティヴィストの廖希文(SH Liao)は、対人性愛中心主義による抹消を説明する際に、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』第8話の台湾素食をめぐる以下のような会話を例にとっている。
バトー「(中略)[台湾素食が]日本の精進料理と違うところは、素材をそのまま調理せず、豆やキノコの類を細工して、肉や魚を再現しているところにある」トグサ「(中略)でもさ、なぜ台湾の坊さんは、そんな面倒な料理法を思いついたんだ。初めから肉の味を知らなきゃ、そんな必要ないわけだろ」バトー「そりゃそうさ。だがな、誰だって仏門に入る前は何でも食えるんだ。いくら修行の身でもその頃の記憶を消すことはできねえよ」廖は、この会話において台湾素食の歴史的背景が捨象され、肉や魚とは無関係に台湾素食を愛好する人の存在が等閑視されている、と指摘する。
バトーの回答は、「素肉」が最初は一般の人々に向けて普及されたという人間仏教の歴史を脱文脈化し、同時に、長い間さまざまな料理技術の中で、台湾の「素肉」が「肉」とは独立した「料理」として存在することを否認しました。その結果、素肉料理が単なる肉料理の代替品だけでなく、誰もが楽しむことができる「料理」であるという事実を無視しています。これによって、単に素肉を好む「素肉愛好者」の存在が抹消されています。(Liao 2023 日本語版より引用)
これと同じ仕方で、二次元をめぐるセクシュアリティ(素肉愛好)は対人性愛(肉食愛好)に基礎づけられ、後者と無関係に働く前者の存在が抹消されるのだと、廖は指摘している*7。場合によっては、二次元キャラクター(素肉)は生身の人間(肉)の表象であり、それゆえ二次元キャラクターを欲望することと生身の人間を欲望することには何の違いもない、という乱暴な還元が行われることさえある。対人性愛中心主義のもとで二次元をめぐるセクシュアリティが抹消されるとき、捨象されているのは二次元存在の物質性だろう。対人性愛中心主義に染まった社会的・文化的要因によって、二次元キャラクターに備わっているはずの物質的要素がもたらす効果が制約され、その物質性が無意味なものとみなされるのである。では、この無意味なものとされる物質性をどのように考えるべきだろうか。
山内祥太《Tina sculpture》2022/Photo by Ryo Yagara
二次元であることの「無意味化」
二次元をめぐる欲望とクィア理論を接続する試みとして、千葉雅也の『意味がない無意味』における議論が挙げられる。千葉の議論は物質性をめぐる考察を含んでいるため、ここで手短に検討しておきたい。まず千葉は「意味」や「理解」の外部に位置する「無意味」を、「意味がある無意味」と「意味がない無意味」に区別する。
意味がある無意味とは、「無限の多義性」ゆえに「思考不可能」で意味不明なものとして人々に経験されるものとしての無意味である(千葉 2018: 11)。意味がある無意味はラカンの現実界やカントの物自体に相当するものであり、バトラー的に言えば、理解不能なおぞましい他者としてあらかじめ排除されるものであり、いわば否定神学システムにおける無意味である。
これに対して、意味がない無意味とは「意味の雨を止めるような無意味」であり(千葉 2018: 11)、おぞましさをもたらすこともなく端的な思考停止に至らしめるものである。これはカトリーヌ・マラブーの言う物質界や、カンタン・メイヤスー的な相関主義の外部にある実在に対応する。意味がない無意味は物質的なものであり、「身体」や「形態」そして「物質的なものの破壊・変化可能性」に相当する。なお千葉の言う「身体」はかなり広い意味の言葉であり、物体や物質だけでなく、人や物の「集まり」や、空想上のイメージなども含め、「どんな抽象的な形態でもbodyである」(千葉 2018: 14)。
このような理論のもとで、千葉は東浩紀の「動物化」論をクィアに再解釈する。東は『動物化するポストモダン』の中で、二次元の性的創作物に対する「オタク」の興奮を、「性器的な欲求」と位置づける(東 2001: 130)。東の議論において、この性器的欲求は「単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近い」ものとされており(東 2001: 129)、そこには支配的な異性愛規範を問い返す契機はまったく想定されていない。これに対して千葉は、オタクは「あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように」(東 2001: 129)それにハマるのだという東の説明を、カトリーヌ・マラブーに倣い「精神に外から介入する脳の可塑性」(千葉 2018: 20)として捉え直したうえで、精神分析的な異性愛規範とは別のレイヤーでクィアな攪乱が生じうると論じる。つまり、薬物中毒的な「認知的習慣化」によって、「異性愛‐生殖規範性が依然として維持されるにしても、それと同時に、〈生殖の脱‐規範化〉が解離的に並立する」状態がありうるのである(千葉 2018: 110 強調原文)。
千葉の議論は、人間の意志的な実践とは異なる仕方で生じるクィアな可能性を「思弁」するものである。しかし本稿の関心からはいくつかの疑義を投げかけることができる。第一に、千葉の議論は、人間の認知のみに焦点を当てており、二次元という非‐人間の物質性を扱っていない。この問題は、『動物化するポストモダン』の当該箇所の議論が二次元の物質性を視野に入れていないことに由来する。いわば「欲求」の対象となる「薬物」に触れておらず、「薬物」の側の多様性を考慮していないのである。関連して、より重要な第二の問題として、「薬物依存」的なクィアネスの可能性がいかにして抹消されるのか、という論点が抜け落ちている点が挙げられる。千葉の議論では、社会的な意味の領域を物質的なものが制約するという側面のみが強調され、物質的なもののもたらす効果が社会的・意味的領域によって制約される側面を取りこぼしているのである。
台湾素食は、たしかに肉料理・魚料理が存在するという歴史的文脈の中から生まれたものではあるが、肉料理・魚料理とは異なる歴史を築きつつ、肉や魚を用いた料理とは異なる仕方で物質化されてきた。にもかかわらず、肉料理や魚料理への欲望を根源的なものだとみなす思い込みによって、台湾素食の歴史性や物質性は抹消されてしまう。それと同じように、対人性愛中心主義的な解釈図式のもとでは、二次元的なキャラクター表現は単に人間を指し示しているものだとみなされ、「記号的」身体としての二次元キャラクターは存在することができなくなる。二次元キャラクターの身体はどのようにして問題=物質となるのか/どのようにして問題=物質になることから排除されるのか、この論点を扱える理論が必要なのである。
そのような理論こそが、ジュディス・バトラーやカレン・バラッドによるパフォーマティブな物質化論である。これは「物質は常に物質化されたものである」(バトラー 2021:16)という立場の理論であり、ある物質が物質化されるプロセスの裏側で「問題=物質になることから排除される身体=物体」(バラッド 2023: 82)も生起するということに注意を促す理論である。この理論では、物質的なものと意味的なものの区別を自明視せず、両者が動的にもつれ合っていると考える。またこの立場では、カント的な物自体は存在しないとされ(バラッド 2023: 533)、ラカン的な現実界もそれ自体として存在するのではなく構成的外部として成立するのだと論じられる(バトラー 2021)。
バラッドの理論は人間の身体の構築に限定されないあらゆる物質を射程に収めており、バトラーよりも一般化されたものである。しかし、それゆえにバラッドは人間の心的プロセスに関するディテールを省略しており、人間の思考プロセスにおける排除や、排除が心理的にどのように経験されるのかという質感を捉えることができない。人間の社会における排除の問題を考えるうえでは、精神分析的な事象を(バトラー的に)パフォーマティブに捉えることが有益である。
とりわけ、二次元の存在がもたらすクィアネスについて考えるうえで重要となるのが「不気味なもの」と「不気味でないもの」をめぐる構築過程である。不気味なものは、「現実界つまり〈意味がある無意味〉が、急に、意味(想像的かつ象徴的な)の地平に迫り出してくる事態」(千葉 2018: 27)に相当するものであり、バトラー的には、おぞましいものとしてあらかじめ排除されるものと位置づけられる。これに対して、「不気味でないもの」は「意味がない無意味」に対応する千葉の造語であり、「馴染みのものと不気味なものの相関性の外部」としての「有限化を引き起こす身体それ自体の性質」を指す(千葉 2018: 28)。こちらは不気味なもののようにあからさまな嫌悪を向けられるのではなく、いわば何も考慮する要素のないものとして素通りされるものだと言える。いずれも意味や社会の「外部」を指し示すものだが、しかし外部に置かれたものは、必ずしもあからさまに嫌悪されるものばかりではない、という点に注意する必要がある。
そのうえで、「不気味なもの」と「不気味でないもの」の排除を動的なプロセスとして捉えると、以下のように言える。一方で、二次元キャラクターに対して向けられる模倣的共感の欲望は、対人性愛中心主義に忠実な人間によって、(異)性愛や生殖にかかわらないものとして不気味化される。しかし他方で、対人性愛中心主義の世界では、二次元の表現はその物質性や独自の歴史性を剥ぎ取られ、単なる人間の表象に還元され、非‐不気味化されることもある。こうしてキャラクターに対する受容者の欲望を社会的に意味のあるものの外部に追いやると同時に、キャラクターを人間の表象という意味のあるものへと飼い慣らす対人性愛主義のもとでは、二次元であること固有の効果は意味の領域の外部に置かれ、言語化できなくなるのである。
山内祥太《Tina sculpture》2022/Photo by Ryo Yagara
技術的人工物をめぐるジェンダー/セクシュアリティの論点への示唆
ある事物が他のものから差異化されて物質となるプロセスは、別の仕方での差異化による物質化を排除することをつねに伴う。バラッドが論じるように、物質の構成に伴う排除を無視しないことが倫理的責任として求められるのである。そのためには、物質化の仕方は変化に開かれていることを認識し、変化の萌芽を潰さないよう注意しなければならない。
その際に重要となるのが、模倣(ミメーシス)における差異の契機である。ウィラースレフが指摘しているように「コピーと原物の差異が完全に消失するとき、まねすべきものは何も残されていない」(ウィラースレフ 2018: 29)。ミメーシスがミメーシスとして成立するためには、差異が不可欠なのである。
そして模倣的とされる営為の意義を強調したのが、他でもないバトラーである。バトラーによるジェンダー本質主義批判は、「ある種のジェンダー化された表現を誤りとか派生的とみなし、べつのものは本物だとか起源とみなす」(バトラー 2000: 66)制度や慣習を問い直すものである。この問題提起の一環として、ブッチ/フェムやドラァグをジェンダー規範や異性愛の再生産とみなす批判や、ゲイ男性が女性性を流用する実践を女性性の簒奪とみなす批判に対して、バトラーは反論を展開してきた(バトラー 1999:217-9)。バトラーの主張とは、規範的な異性愛を模倣することが、その規範を完璧にコピーして再生産することになるわけではない、というものなのである。
バトラーの理論は「あらゆるストレートなセックスはファルス的であり、あらゆるファルス的なセックスはストレートであるという誤った想定」を批判するものである(プレシアド 2022: 90)。これを引き継ぎながら、ポール・B. プレシアドはディルドをファルスやペニスと同一視する発想を痛烈に批判する。ディルドはペニスのコピーなのではなく、「オリジナルなペニスを遡及的に産出する」代補物なのである(Preciado 2000=2022: 96)。そして「ディルドは、それが模倣すると想定された器官に連結していないため、セックスをその「真正な」起源から逸脱させる」(Preciado 2000=2022: 98)。ディルドとは、「オリジナル」とされる異性愛性交とは異なる営為への誤配をもたらしうるものなのである。
二次元をめぐる議論も、バトラーやプレシアドの延長に位置づけられる。二次元の女性キャラクターは、ある意味で現実の生身の女性から記号的なジェンダー・ステレオタイプを切り離し、それによって対人性愛とは異なるセクシュアリティを生み出しているものである。このような現象は、「女性性のステレオタイプを素材としてアニメートされた対象が、女性から切り離されて独立し、女性とは異なる存在物になることによる動的な誤配=攪乱」に他ならない(松浦 2022: 68)。この誤配は、女性性の源泉が人間の女性にあるという発想を問い直すものであり、二次元美少女と人間の女性がいずれも「同じ」女性であるという認識を成立せしめる前提を掘り崩すものであり、そして(とくに異性愛男性が)人間の女性を性的に欲望することの自明性を突き崩すものなのである。
フェミニズムの文脈では男性受容者の異性愛的欲望を再生産するような二次元の女性キャラクターの性的な表象が議論されがちだが、しかしフェミニズムの観点から言えば、むしろ二次元の男性キャラクターを考える際にこそ、女性性や男性性の源泉をめぐる理論が重要となる。例えば、「オレ様」的な男性キャラクターを愛好する人々は、「オレ様」的な支配的態度をとる生身の男性を欲望するわけではなく、またそのような男性性を肯定するわけではない。ここでも女性キャラクターと同様の誤配が生じている。しかし二次元と三次元の存在論的な違いを無意味なものとみなしてしまうと、こうした人々があたかも現実でも支配的な男性を好んでいるかのように誤認されてしまう。そして「オレ様」キャラを愛好する人に女性が多いことを考えれば、二次元と三次元の違いを無視することは、まさにそうした女性たちが男性からの支配を望んでいるかのような偏見を助長しかねないのである。
以上のことを考えると、ブッチ/フェムやドラァグ、ディルド、そして二次元キャラクターなどについては、それ自体として規範的なジェンダー規範やセクシュアリティ規範を再生産するものとみなすべきではない。むしろ批判的に検討すべきは、こうしたものがもたらす誤配や攪乱がどのようにして抹消されるのかという問題である。
例えばプレシアドは、ファルス的な表象が必然的に家父長制を再生産するという想定を、否定神学をもじって「否定‐性科学」と呼んでいる(プレシアド 2022: 100)。否定性に基づく発想では、ファルスの否認を通じてファルス中心主義の存在を前提としてしまうし、ファルスには回収されないディルドの物質性を無視することになる。
物質性の軽視という問題はトランスフォビックな議論にも通底している。トランスフォビアの言説は、シスジェンダーの身体を「より物質的」に「正当」なものとみなし、トランスジェンダーの身体を「フェイク」とみなす、「物質的なものの位階秩序」を背景にしている(藤高 2023: 34-35)。シスジェンダー中心主義やシスジェンダリズム(cisgendersim)は、その規範に則っていない身体の物質性や歴史性を軽視する傾向にある。
そして同じことが、人工物にジェンダーを帰属させる実践についても言えるだろう。たしかに私たちの社会では、人工物がジェンダーをもっていると言える状況はあり、ある意味で人工物にジェンダーを帰属させているようにも思える(西條 2019)。しかし実際には、人間の身体にジェンダーが帰属されている事例こそがジェンダーの本来的なあり方だと暗に想定されており、人工物に帰属されている(ように見える)ジェンダーはあくまで「人間のジェンダー」を映した表象とみなされ、より正当性の低いものとみなされているのではないだろうか。そしてそこでは、人間の身体とは異なる仕方でジェンダーが物質化されているということの意味が軽視されているのではないだろうか。そうだとすれば、人間のジェンダーを基盤的なものとみなしつつ、人間以外の存在によって例化されるジェンダーを「より物質的でない」「単なる表象」とみなす発想を、ヒューマノジェンダリズム(humanogenderism)と呼ぶことができるかもしれない。
本稿では、二次元キャラクターの物質的様態と、それをアニメートするプロセスとしての模倣的共感という、二次元キャラクターを人間とは異なるタイプの存在者として成立させる要因について検討した。二次元キャラクターという存在者が成立するということは、「何が存在するか」という存在者のリストが改訂されるという意味で存在論的な変化である。そして存在論的な変化は、人間とは異なるタイプの存在者への欲望を生みだすという意味で、人間の知覚や欲望を変容させるものでもあり、そこに規範的なジェンダー/セクシュアリティのあり方を攪乱する契機がある。
しかしながら、そのような変容の可能性は対人性愛中心主義のもとで抹消される。この抹消は、歴史性や物質性を軽視し、変化の可能性をあらかじめ締め出すものに他ならない。そしてこの問題は、セックスロボットやAIのジェンダーについて考えるうえでも避けることのできないものである。単に技術や人工物についての倫理的な善し悪しを論じるのではなく、技術や人工物をとりまく環境や社会的規範の問題にきちんと目を向けなければならない*8。
山内祥太《Tina sculpture》2022
[註]
*1
フィクトセクシュアル研究の概説は松浦(2023)を参照。
*2
この点についてジャン=マリー・シェフェールは、嘘と創作の区別を語用論的なものとして説明している(シェフェール 2019)。
*3
「心の模倣」や「模倣的共感」の検討を含めた、二次元キャラクターという存在者がどのように生成するかという問題は、筆者の博士論文(2023年度提出予定)で詳しく検討している。
*4
このことは、いわゆる「萌えキャラ」としてのタチコマについて考えるうえでも重要になると思われる。なお《攻殻機動隊》シリーズは「萌え」とは縁遠い作風だが、例外的にタチコマが「萌えキャラ」であるという点については、すでに海猫沢めろんが指摘している(海猫沢 2005)。
*5
テクノアニミズム論とは、日本は伝統的なアニミズムの文化があるから、日本人はロボットやAIのような技術的人工物を人格的存在として捉えやすい、という発想である。テクノアニミズム論の誤謬については呉羽(2021)が丁寧に論じている。
*6
このような攪乱が異性愛規範やジェンダー規範とどのような関係にあるかについては、松浦(2023)を参照。
*7
これに対して、素食がすでに肉や魚の単なる代替品ではなくなっているのだとしても、そもそも肉や魚を模倣する必要はなかったのではないか、なぜあえて肉や魚を模倣するのか、という疑問があるかもしれない。しかし肉や魚を模倣するという営みは、意図的に何でも選択できる状況の中であえて選ばれたものではなく、すでに肉食文化が存在する状況の中から結果的に生じたものである。歴史的経路依存の問題と、非歴史的な本質の問題、そして倫理的な価値判断の問題は区別する必要がある。
*8
AIやロボットをめぐるジェンダー/セクシュアリティの論点については、本サイトISSUE #01の「記憶の継承、未来の複数性」とくに「AIとジェンダー表象」の節もあわせて参照されたい。
[参考文献]
●足立加勇「人間の表象としてのキャラクターとファンのコンテクストとしてのキャラクター──消費者集団の社会活動が生み出すキャラクターの二面性」永田大輔、松永伸太朗編『アニメの社会学──アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』ナカニシヤ出版、2020年、pp.204-220
●東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』講談社、2001年
●泉信行「恋の心のシミュレート──同/異性をめぐるキャラクターの表現」『美術手帖』2014年12月号、pp.143-147
●岩下朋世『少女マンガの表現機構──ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』NTT出版、2013年
●海猫沢めろん「異形の愛──『S.A.C.』と萌え」『ユリイカ』37(11)、2005年10月号、pp.152-157
●呉羽真「日本人とロボット──テクノアニミズム論への批判」『Contemporary and Applied Philosophy』Vol.13、2021年、pp.62-82
●西條玲奈「人工物がジェンダーをもつとはどのようなことなのか」『立命館大学人文科学研究所紀要』No.120、2019年、pp.199-216
●千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社、2018年
●藤高和輝「語りを掘り起こす──トランスの物質性とその抹消に抗する語り」菊地夏野、堀江有里、飯野由里子編『クィア・スタディーズをひらく3 健康/病,障害,身体』晃洋書房、2023年、pp.22-45
●松浦優「メタファーとしての美少女──アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル」『現代思想』Vol.50(11)、2022年9月号、pp.63-75
●松浦優「フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治」、公開講座「從紙性戀思考性與性別的政治」日本語版講演資料、2023年
●カレン・バラッド『宇宙の途上で出会う──量子物理学からみる物質と意味のもつれ』水田博子、南菜緒子、南晃訳、人文書院、2023年
●ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル──フェミニズムとアイデンティティの攪乱』竹村和子訳、青土社、1999
●ジュディス・バトラー「『ジェンダー・トラブル』序文(1999)」高橋愛訳『現代思想』Vol.28(14)、2000年12月号、pp.66-83
●ジュディス・バトラー『問題=物質化する身体──「セックス」の言説的境界について』佐藤嘉幸監訳、以文社、2021年
●ポール・B.プレシアド『カウンターセックス宣言』藤本一勇訳、法政大学出版局、2022年
●ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?──ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』久保昭博訳、慶応義塾大学出版会、2018年
●レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ──シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』奥野克巳、近藤祉秋、古川不可知訳、亜紀書房、2018年
●Liao, SH(廖希文)「紙性戀宣言: 其置身處境、政治可能性及批判性抵抗」2023年(2023年12月3日閲覧)
日本語版「フィクトセクシュアル宣言:その位置、政治的可能性、そして批判的抵抗」(2023年12月3日閲覧)
●Heiko Motschenbacher, “Focusing on Normativity in Language and Sexuality Studies: Insights from Conversations on Objectophilia.” Critical Discourse Studies, 11(1), 2014: 49–70.
まつうら・ゆう/1996年福岡生まれ。九州大学大学院人間環境学府博士後期課程在籍。専門は社会学・クィアスタディーズ。共著に『フェミニスト現象学──経験が響き合う場所へ』(ナカニシヤ出版、2023年)、おもな論文に「抹消の現象学的社会学──類型化されないことをともなう周縁化について」(『社会学評論』74巻1号、2023年6月)、「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向──仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」(『現代思想』2021年9月号)など。