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KODANSHA
攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_ 平田実「天神交差点の街頭ハプニング 集団蜘蛛と集団“へ”」、 1970年

平田実「天神交差点の街頭ハプニング 集団蜘蛛と集団“へ”」、 1970年
©HM Archive / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

2024.02.07COLUMN
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ISSUE #02小澤京子

空隙のリベルタン──都市と身体の法-外の場

文_小澤京子[Kyoko Ozawa]
写真_平田実[Minoru Hirata]

「はるかな迷路のひだを通り抜けて、とうとうお前がやってきた」

これは草薙素子少佐との苛烈きわまる電脳戦の末に追い詰められた天才ゴーストハッカーが不敵さを滲ませつつ漏らした窮鼠の独白──ではなく、小説家・安部公房がものし、その後、勅使河原宏によって映画化された不朽の名作小説『他人の顔』の、冒頭の一文である。

ひだ(襞)──。都市や建築を主な専門領域としながら、その「イケメン」論、「ビジュアル系」論などにおいても知られる美術史家・小澤京子の思索は、「ひだ」へとつねに向けられてきたようにも思われる。小澤が今回、《攻殻機動隊》の「はるかな迷路のひだ」を通り抜けて向かったのは、作品に登場する(ニューポートシティや択捉経済特区のチャイナタウンなどの)都市、そして(テクノロジーと緊密に接続した「ポストヒューマン的」な)身体に潜む法-外な空隙、「内部に折り込まれた辺境」である。

言わずと知れた安部公房の記念碑的随筆の表題でもある「内なる辺境」が生成する束の間のリベルティナージュ。それは、テクノロジーにつきもののアウトロー性とも絡まりあい、《攻殻機動隊》の世界に様々な事故を引き起こす。トラブルを得た物語は、性懲りもなくアウトローへと舵を切る。

さしずめ本稿は、すでに燃えつきた地図を携え、物語にはまだ届かない「辺境」を尋ね彷徨った、(思弁的な)散策の記録とでも言おうか。

目次

都市の中の空隙、あるいは内部に折り込まれた辺境

都市の中の空隙のような場について考えている。都市は人工の構造物に覆われ、制度とシステムが総体をコントロールし、「間隔」や「余白」すら計画的に創出されたもので、そこには人為の意味や機能が付される──例えば、防災や健康・衛生のための建蔽率、税制との関連、景観上の配慮、あるいは「コミュニティ」創出のための広場といったように。このような機能と目的に支配された場に穴を穿つのが、とりあえずここで「空隙」と呼ぶものである。例えば廃墟や廃屋、そのほか遺棄された場(abandoned places)、人間の意図に反して壊れてしまった場、法律上の権利が不詳となった場、廃棄物の蓄積する場、計画の「外れ」として想定外に生み出されてしまった余剰もしくは外部のような場……そのような場には、えてして不法占拠者スクォターや浮浪者が集まってきて(そして定住することなく去ってゆき)、しばしば法や道徳から外れた行為がなされる。探偵小説における「謎」や都市型の怪異が生起する場、あるいは近年の映像主体のSNSでひとつの流行となっているリミナルスペースやバックルームと呼ばれる場も、近代型都市の中にかりそめに現れる、このような「空隙」のひとつと捉えることもできるだろう。それは流動的で過渡的な場であり、固定的・一義的な定義から絶えず逃れ去る場であり、異界的ではあるが日常の完全な外部ではなく、マージナルでリミナルであり、いわば「内部に折り畳まれた辺境」である。

西洋における「崇高の美学」と結びついた廃墟とも、第二次大戦後の原風景としての焼け野原や原爆野とも性質を異にする「廃墟」的な場のイメージが、日本でおもにポピュラーカルチャーの分野に溢れ出すのは、1980年代のことである。廃墟といえば、大友克洋の『AKIRA』(に代表される、核による最終戦争が生み出したポスト・アポカリプス的風景)が即座に思い当たる。しかし都市に空隙を生むのは、急速な産業構造の変化と都市の再開発の帰結である、都市や工業地区の中に出現した遺棄された場(例えば、日野啓三が描き出す廃棄物の集積地、東京グランギニョルの演劇や三上晴子のインスタレーションの背景をなす廃工場、映画『ロビンソンの庭』や『追悼のざわめき』で都市を浮遊する無所属者たちの集まる廃病院や廃墟ビル、あるいは丸田祥三や宮本隆司による廃墟写真の系譜……)である*1

このような都市の「空隙」、「内部に折り込まれた辺境」という系譜の中に、《攻殻機動隊》シリーズも位置している。

 

《攻殻機動隊》に登場する「公安9課」のメンバーたちは、法の執行者として国家権力の制度に属しつつも、その境界線に抵触し、その外部へとはみ出してしまう、空隙に潜む存在である。士郎正宗によるマンガ版第1巻では、公安9課創設の目的が、「犯罪の芽を捜し出し、これを除去する」ことにあると部長・荒巻によって語られる。公安9課は、まさしく国家権力に所属する法の執行者であるが、規則と規律に四角四面にしばられた警察や軍隊──作中では概して無能なモブとして描かれる──とは異なり、まさしくアウトロー的なポジションにある。その任務遂行のために、彼らの行動する場は、しばしば電脳ネットワークと接続された都市の空隙に、あるいはその内部と外部のあいだに落ち込んだ辺境的な場に置かれてしまう。

《攻殻機動隊》シリーズでは、草薙素子が高層ビルから飛び降り、光学迷彩を発動しながらその隙間へと姿を消してゆくイメージが繰り返し登場する。これは公安9課の活動の場が、核戦争後に新設された人工都市の空隙であることの暗喩でもある。草薙が滑り落ちてゆくのは、現代的なオフィスビルや近未来的な摩天楼の隙間であるが、それと等価な「空隙」として登場するのが、都市開発の残余であり、都市の空隙に自生する空間としての半ば廃墟化した旧市街である。

都市の空隙としての廃墟的な場をヴィジュアル・イメージとして強烈に打ち出したのは、押井守監督のアニメーション『Ghost in the Shell/攻殻機動隊』(以下『GITS』)と『イノセンス』であろう。

『GITS』の舞台である「ニューポートシティ」には、現代的あるいは近未来的な高層ビル街の内部に、「折り畳まれた辺境」としての旧市街を擁している。ここでは猥雑な市場や、崩落と増築が無秩序に同時進行する雑居ビル群、その隙間の路地、ゴミの浮いたドブ川、漢字と英字の極彩色の看板が入り混じり、建築途中のビルさえ廃墟に見えるような、随所に鉄錆の浮いた建物の並ぶ繁華街といった場でのシークエンスが、随所に挟まれている(銃撃戦の場となることもあり、単なるイメージショット的挿入のときもある)。旧市街に横溢する光化学スモッグの黄ばんだ空気と全体に漂う猥雑な雰囲気が、無機質で無個性でほとんど記号的なビル街とのコントラストをさらに強調する。監督自身がたびたび明言している通り*2、この旧市街は当時の香港での丹念なロケハンに基づきつつも、現実に参照項をもたない想像上の架空都市として描出されている。さらにラストシーンでは、水没したまま放棄された旧市街の区域にある、廃墟化した洋風の邸館(明らかにロンドン万博の水晶宮を参照している)が、草薙と「人形使い」の壮絶な対決の舞台となる。

ニューポートシティから「択捉経済特区」に舞台を移して展開する、『イノセンス』のチャイナタウンは、さらに壮麗さと幻想性が増したものとなっている。「ロクス・ソルス社」は、押井が「中華ゴシック」や「チャイニーズ・ゴシック」と名付けた、中国的伝統とミラノのドゥオモを連想させるゴシック様式、そして摩天楼のヴィジョンとが融合したキメラ的な建築物として立ち現れ(その意味ではピラネージの幻想建築的でもある)、見る者を圧倒する。しかしこれは、決して宗教的な権威の中心としての大聖堂でも、経済活動の繁栄の中枢としてのスカイスクレーパーでもない。ロクス・ソルス社が鎮座するのは、「国家組織の曖昧なところにつけ込まれた、多国籍企業やそのおこぼれに預かる犯罪組織の巣窟」、「軍も手を出せない無法地帯」と化した「巨大な卒塔婆の群れ」の真っ只中だ。

運動と時間と、それによって可能となる空間内の移動のシークエンスという、動画メディアに固有の性質と(と書くとずいぶんと素朴なメディウム固有性の議論になってしまうが)、計算され尽くした頻繁に切り替わる種々のカメラワークの妙が、この「場」の特質をさらに際立たせている*3

 

いうまでもなくチャイナタウン風の都市イメージは、映画『ブレードランナー』に登場する、摩天楼のそびえ立つ近未来のロサンゼルスの真ん中に残された、半ば廃墟化しつつあるアジア人街を参照し引用したものである。あからさまに「未来的」な高層ビル群が象徴するシステムやテクノロジーや規範といったものがその内部に抱え込む、疎外されつつも同時に馴致されない残余として、とりわけアメリカ合衆国という地域においては、時代を隔てた他者であり、制度的な他者であり、また文化的・民族人種的な他者でもあるという意味で多重的な他者性を付与された、混淆的で決定不能な場として、『ブレードランナー』のアジア人街は表象されている。その後のサイバーパンクブームの中で、近未来的高層ビル街の中に取り残された、猥雑でうす汚れたアジア人街というモティーフは、法の外あるいは境界にある「空隙」、「内部の辺境」ともいうべき場として、多くの作品に引用されることになった。『GITS』や『イノセンス』も、都市表象という点では(意図的に埋め込まれた差異は様々にあるものの)このようなアジア人街の系譜に連ねることができるだろう。

『ブレードランナー』に連なるアジア人街表象の系譜からは、「西洋」側のオリエンタリズム、あるいは「テクノ・オリエンタリズム」や、その日本における意図的引用(反射的/反省的リフレクティヴなセルフ・オリエンタリズム)といった問題系も生じうる。「ポストモダン」などと唱えつつも西洋近代を引きずったまま、帝国主義時代における「欧米列強」を経て冷戦期の西側諸国へと移行した地域(つまり欧米圏)における「植民地」と「内部の辺境」(典型的には移民街など)というテーマ、あるいは西洋近代にとっての「他者」でありつつも、西洋近代的な心性を内面化し、他のアジア諸国に対しては宗主国の立場にあったという二重性を抱える日本における「自己の内部の他者」というテーマが、サイバーパンクの系譜に頻出する「オリエンタル」に他者化された都市表象には埋め込まれている。

『GITS』の「ニューポートシティ」は、核戦争による東京の壊滅後に、福岡への首都移転計画の過渡的段階として、海上の人工島に暫定的に設けられた日本の首都である。完全に人工的に構築された新たな首都(歴史や記憶の積層のほとんどない場)の内奥に、チャイナタウンという一種の辺境的、あるいは異境的な場が折り畳まれている。それに対して、『イノセンス』の舞台である択捉は、現実の歴史的経緯を考えるならば本来はアイヌの土地であり、日本という国家の領土に属しつつも他国による実効支配が続くという「内部の辺境」、ないしは国家主権制度の「空隙」である。作中の「択捉経済特区」は、政府の規制緩和を受けて、最先端のテクノロジーが集結する場となっている。このように「ニューポートシティ」と「択捉経済特区」は、成り立ちも性質も異にするものの、ともに国家にとって周縁的な場(海上、もしくは北方領土)に政策的に構築された歴史の浅い都市であり、比較的近年建てられたと思われる高層建築に覆われている。その中に、進歩的な時間からは取り残された(あるいは周囲の発展に抵抗し続ける)残余として、いずれの作品でも古びたチャイナタウンが登場する。

『ブレードランナー』のアジア人街表象と比べると、『GITS』と『イノセンス』のアジア人街からは、日本語が排除されている。アメリカにとってのエキゾティックであると同時に不安ももたらす「他者」のイメージには、当然日本も含まれていたのに対して、日本で製作された2作の場合、「内なる他者」を表現するためには、「アジア」のイメージから自国を取り除く必要があったのだろう。

『ブレードランナー』のアジア人街は、ロサンゼルスに実在するチャイナタウンがモデルなのであろうが、中国語に混じって日本語のサイネージ広告やセリフも登場し、クリシュナ信仰の一行が練り歩く場面もあるなど、アジア(あるいはアメリカから見た「アジア的」なもの)の諸要素が混淆した都市として表象されている。それは明らかに、西洋よりも遅れていて、進歩の時間が静止し、だからこそ神秘的でかつ胡散くさいというオリエンタリズム的な視点から描かれており、これから技術的先端の未来へと向かう時系列の中で、やがて消滅するであろう予感をたたえている。他方で『GITS』や『イノセンス』に登場する、新興の暫定的首都や経済特区の中に突如として現れる古びた異人街は、古い時代からあった地区が周囲の開発に取り残されたというわけではなく、むしろ由来不明の自然発生的な「異物」として存在している。このアジア人街は、統一的な計画や管理からは外れた場であり、絶えず崩落してゆく部分も抱えつつ、同時にブリコラージュ的な増築が無秩序に重ねられていく、それ自体で有機的なシステムをもつ生命体──例えば、『イノセンス』でバトーのセリフにも登場するサンゴ──のような場である。

 

押井が監督を務めたアニメ2作に比べて、1991年に第1巻が刊行された士郎正宗のマンガ版は、全体的にストーリーも視覚的情報も圧縮されており、場所それ自体を「引き」で見せる場面はさほど多くない。マンガとアニメーションというメディアの性質の違いも影響しているのかもしれない。ただし、「公安9課」が解決すべき犯罪やアクシデントの顕在化する場として、ゴミの集積所や第二次大戦後の闇市の風情を残す古びたアーケード商店街、人気のない小工場や倉庫、狭隘でゴミゴミした路地裏といったロケーションは頻出する(このような場に露骨なエキゾティシズムを導入する押井とは対照的に、士郎のマンガでは基本的に看板等は日本語で書かれている)。

このような、バグやハッキングの発生する場としての都市内の狭隘な空隙と対照を成すのが、たびたび大ゴマで描かれる、広い海上に浮かんだ船の甲板や、あるいは水中という、都市の外部の開放空間であろう。この水中や水上という場では、むしろ草薙の身体がクロースアップされ、その身体(義体)の生成や性的な感覚への没入などが描かれる。海という開放空間も決してネットワークの外部ではなく、個々の「電脳」を通じた接続の網目に覆われており、むしろネットワークの比喩(例えば「ネットサーフィン」といった表現)のリテラルな体現にもみえる。

前述の1980年代のフィクション的想像力が生み出した廃墟的な、あるいは都市の「空隙」のイメージ群はまた、テクノロジーの自己暴走や失敗という現実も反映している。例えば、チェルノブイリ原子力発電所の事故、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げ事故、日航ジャンボ機の墜落事故といった時事問題である。テクノロジーにまつわる事故は、個別のアクシデントとしては人為の外部から偶然を装ってやって来るが、しかしそれはテクノロジーそのものに必然的に内包されている。ポール・ヴィリリオは1980年代に、このことを「根源的アクシデント」や「原(ur-)事故」と名指した*4。極言するなら、テクノロジーもまたひとつのアウトロー性を帯びた存在である。それは人間による完璧な管理社会をもたらすかに見えて、ときおりそれを内側から食い破り、あるいは外部から破壊する。このようなテクノロジーの空隙、ないしは内部に抱え込まれた他者としての事故/アクシデントは、《攻殻機動隊》においてはしばしば、空隙や「折り込まれた辺境」としてのチャイナタウンや廃墟で発生する。

《攻殻機動隊》の世界設定は、「電脳」とその高速ネットワーク、「義体」、その前提にある「マイクロマシン」や監視と管理のための「IRシステム」などが普及した近未来であるが、物語を進展させるのはむしろそのトラブルである。管理と統制の内部に抱え込まれたハッキング行為やバグという空隙、あるいはシステムの外と、都市における法-外の出来の場とが重なり合う。

攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_ 平田実「博多・天神の街頭ハプニング 集団蜘蛛」、1970年 ©HM Archive / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film
平田実「博多・天神の街頭ハプニング 集団蜘蛛」、1970年 ©HM Archive / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

ポストヒューマン──身体のリミナルでマージナルな場

「ポストヒューマン」の語が、哲学の分野を皮切りに、拡張された意味で使われるようになって久しい。概括するならば、人間と動物、植物、無機物といった従来の定義と序列を懐疑し、またヒューマニズム(人間主義)やヒューマニティーズの境界を問い直すための概念として機能しているようである。さらに踏み込んで考えるならば、このワーディングによって既存の制度の外部、いやむしろマージナルやリミナルな場に置かれた存在を、思考に取り込むことが可能になる。

 

一連の《攻殻機動隊》シリーズには、サイボーグ、ロボット、アンドロイド、さらにアニメシリーズにおける動物や子ども(幼年期)といった、分かりやすい意味でのポストヒューマン的存在が登場する。しかし、このようなモティーフとはまた別の、「人間」概念の境界におけるマージナリティやリミナリティも、《攻殻機動隊》の中には存在している。これもまた、ひとつのアウトロー性と呼びうるのではないか。

 

《攻殻機動隊》シリーズでは、テクノロジーと身体との接続という「ポストヒューマン的」性質は、エンハンスメントやコミュニケーションの効率化・加速という、きわめてポジティヴで功利主義的な効果とともに、身体の破壊やネットワークの断絶・機能不全、あるいは無自覚のうちに踏み出してしまうリベルティナージュ(法-外の絶対的自由としての放埒・放蕩)とも結びついている。例えば士郎によるマンガ版『攻殻機動隊』には、草薙が女性同士で身体を接続し、性的快楽を電脳で共有しマイクロマシンでこれを増幅し合うという場面が登場する。ここに、例えばマルキ・ド・サドにおける「リベルタン」思想にあるような、既存の規範を踏み越えた性的放埒を通して、諸制度も自己それ自体も破壊し無化してしまうような、剣呑な自由への契機を見てとることもできるのではないか。

《攻殻機動隊》の舞台装置は、個々の身体と都市とサイバースペースが結合された近未来である。個々の脳はネットワーク接続されて「電脳」となる。それは常時接続ではなく、「個人」と呼びうる存在の意思で選択できるとはいえ、即時の「電脳通信」が可能となっている。もはやこうなると、ネットワークの総体が巨大なひとつの集合的意識のようなものを形成していると考えられ、旧来的かつ素朴な「個人としての人間」という分割単位の、その分割の前提が危うくなってくる。

人間―機械の接続・融合だけでなく、《攻殻機動隊》では人間と都市も接続され、その中に組み込まれ、ネットワーク化されている。『イノセンス』には、「択捉経済特区」の上空から眼下の高層ビル群──チャイニーズゴシックの意匠を施された「巨大な卒塔婆の群れ」──を眺めたバトーが、都市を巨大な外部記憶装置に準えるシーンがある。トグサとの対話の中で、「生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとすると、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし、都市が巨大な外部記憶装置ってわけだ」とバトーは言う。

 

ポストヒューマン的状況が極まっているようにも見える《攻殻機動隊》の世界では、それでも未だ「個としての存在」に対して、作中で「ゴースト」と呼ばれる人間的な人格のようなものが認められており、個の集まりである中間団体、例えば「家族」も、国家というフィクショナルなまとまりも、国家に従属する内部の組織である「警察」や「軍」や「公安」も健在である。マンガ版第1巻の冒頭では、舞台となる2029年が「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても/国家や民族が消えてなくなる程/情報化されていない近未来」と規定され、TVアニメシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の設定である2030年は、「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある一方向に向かわせたとしても“孤人”が複合体としての“個”になるほどには情報化されていない時代」となっている。

個人はネットワーク接続されつつも、常時は個人としての身体を備えている。「義体」の技術は身体の一部に取り入れてサイボーグ化することも、「全身義体」として完全に人工物としてのヒトガタの「中に入る」ことも可能となっており、さらには脳をもたない「ロボット」も存在しているが、あえて義体化していない人間も、一部あるいは全体を義体化した人間も、ロボット(AIや「ダビングしたゴースト」を搭載することもでき、見た目を人間型にしたものはアンドロイドと呼ばれる)も、外見上は見分けがつかない。この「見分けのつかなさ」もまた、作中での様々な事故や犯罪の呼び水となっている。

 

しかし、「個」と「ネットワーク化された総体」とのあいだの素朴な分割線が、消滅する瞬間もある。『GITS』では、一時的に義体を離れた草薙は「人形使い」と融合し、ネットワークに取り込まれ個としての輪郭を消滅させた存在となる。それでも彼女の「脳殻」は少女型の義体の中で保持されてはいるものの、そのゴーストは「人形使い」を介してネットワークと融合する。人形使いと融合した草薙を語るとき、かつては人間という存在を規定していた、「魂とその容器としての肉体」という古典的な二項対立ないし分割も、自/他の素朴な境界も、個人(individual)の「それ以上分割不可能なまとまり」という定義も、もはや用をなさなくなっている。このことを「人格の同一性」だとか「テセウスの船」などといった、哲学の古典的な問いの図式に押し込めてしまうと、「同一」や「個として切り離され自律した総体」という概念を維持せざるをえず、ここで起きていることはずいぶんと矮小化されてしまう。草薙と人形使いの融合は、それ自体が情報の海の中で生じる生命の創発を思弁する事例ではあるが、同時に既存の法の完全な外部に投げ出され、存在の輪郭や基盤を崩壊させてしまう、徹底的ラディカルな自由の到来の瞬間でもあるだろう*5。類似する契機は、『イノセンス』に登場する、バトーのゴーストをキムの脳殻によってバックアップするエピソードや、マンガ版での、互いの身体と感覚を接続し共鳴させることで、性的快楽を乱交的に共有する草薙たちのシーンにも見出すことができる。

つまりこのポストヒューマン的状況は、技術のレベルのみならず、法的なステータスにおいても、従来の「人間とそれ以外のもの」との境界線を無化している。このリベルタン的ともいえる法-外のラディカルな自由は、アウトロー的とはいえ基本的には「法の執行者」である公安9課のメンバー、とりわけ草薙において、その「法の執行」の過程において到来する(この点で、独自に制定された規則の徹底的な執行により、既存の法や道徳の規範を踏み越えてゆくサドのリベルティナージュも連想させる)。この自由は、おそらくは束の間の流動的なものであり、将来のテクノロジーの発展や法規範の整備によって回収されてゆく可能性も高いのだが。

攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_ 平田実「退散! 集団蜘蛛」、1970年 ©HM Archive / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film
平田実「退散! 集団蜘蛛」、1970年 ©HM Archive / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

結語

《攻殻機動隊》シリーズ、とりわけ士郎正宗によるマンガ三部作と押井守によるアニメーション2作(『GITS』、『イノセンス』)について、都市と身体(あるいはこの語や概念そのもの)にアウトロー性が現れる瞬間を取り出してきた。法の完全な外部に確固として自律するのではなく、法の境界に位置し、しばしばそれに抵触したり、すり抜けたり、あるいは共犯関係や「見逃し」というかたちで共存(ないし寄生)したりするのがアウトローである。そもそも法の存在しない完全にアナーキーな場には、アウトローも存在しえない。

このような、法-外としての「空隙」や「内部に折り込まれた辺境」的な何かが、電脳ネットワークに覆われつつもそれが未だ不完全な──シリーズ内で反復される、「〔テクノロジーが進展〕しても、〔私たちが前提としている諸制度が完全に無化される〕ほどには情報化されていない時代」構文が端的に表す通りの──世界において、つかの間現れては霧散する。ストーリーの総体を追うならば、それは「結末における秩序の回復」という類型として解釈できてしまうのかもしれない(これは、おそらくは作品が一個の作品として成立し自律するための必然的な要請ゆえでもあるだろう)。しかし《攻殻機動隊》シリーズにおける法-外アウトロー的な「空隙」には、シリーズ内の個々の作品のスタンド・アローン・コンプレックス的な連結関係──「原作とその翻案」という「単一の中心とその派生群」という関係を超えて、自律しときに相矛盾しつつも相互にゆるやかに繋がり、ひとつの「世界観」を生成させ続けていくような──の中で、私たちの思考の前提となっている、既存の言語によって切り分けられた概念からは逃れ去るような何かが埋め込まれている。それは、微細なディテールに見えるが、その実、決定的な核なのである。

[註]
*1
このような1980年代における廃墟的表象の流行に影響を与えたものとしては、他に1982年公開の『ブレードランナー』を旗印とするサイバーパンクの潮流や、欧米圏(おもに当時の西側国)におけるいわば「デッド・テック」系写真の流れもある。後者の例としては、アルゼンチン出身のアナ・バラッドによる打ち捨てられたロケット基地の写真集(1970年代末から1980年代前半にかけて撮影され、日本では『アナ・バラッド写真集』としてペヨトル工房から1989年に刊行された)や、西ドイツ出身のマンフレート・ハムの『Dead Tech』(西独で1981年、アメリカで1982年に刊行)、あるいはフランスのジャーナリストであるソフィー・リステルユベールがレバノン内戦で荒廃した風景を写した『ベイルート』(1984年刊行、三上晴子も影響を受けたという)等も挙げておかねばならない。
*2
押井守『イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談』徳間書店、2004年、シュテファン・リーケルス『アニメ建築 傑作背景美術の制作プロセス』和田侑子訳、グラフィック社、2021年など。
*3
このシークエンシャルな視覚経験を文章で記述することはどだい無理なので、本ウェブサイトのSTREAMINGからそれぞれの映像を鑑賞されたい。
*4
ヴィリリオと浅田彰の対談、『朝日ジャーナル』1988年11月4日号より。浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』中公文庫、1999年に再録。
*5
もっとも、この自由もまた不完全なものであり、草薙は依然として「義体」という個としてのまとまり、あるいは他者とのあいだに引かれる分割線を必要としているし、そもそもネットワーク内の存在である「人形使い」の目論見は、「死」や「子を成す」という、ずいぶんと因習的で素朴な人間の肉体の宿命を手に入れることにあるのだが。

小澤京子
おざわ・きょうこ/和洋女子大学人文学部教授。東京大学大学院総合文化研究科修了、博士(学術)。専門は表象文化論、とりわけ身体と空間との関わりをテーマとしている。著書に『都市の解剖学―建築/身体の剥離・斬首・腐爛』(ありな書房、2011年)、『ユートピア都市の書法―クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』(法政大学出版局、2017年)、共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社、2022年)、『ストローブ=ユイレ——シネマの絶対に向けて』(森話社、2018年)など。論考に「建築巡りの異界の旅」(『現代思想』2023年10月臨時増刊号)など。