© 士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊2045製作委員会
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KODANSHA

2024.10.28COLUMN
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ISSUE #04青山新

小さく、不機嫌な、パンをともに食べないものたち

文_青山新[Shin Aoyama]
図版_Shutterstock

足が短くて、のっぺりとした長い耳は地面に着いてしまいそうなほど。バセットハウンドと呼ばれるこの犬種は、押井守監督の『イノセンス』において、なんとも言えない表情でバトーを見つめ、抱かれる──他方にはトグサと彼に抱かれる娘、さらにその娘に抱かれる人形がいるのだけれど。同作を鑑賞したあと、人間と犬、人形の関係性について、誰しも問うてしまうのではないだろうか。

この文章が直接その答えになるかはわからない。しかし、人間と人間以外の存在との関わりに対して、いっそう引っかかりを感じるようになるはずだ。

本稿は作家・デザイナーの青山新が、人間にとっての異種について──より正確には「異種に対する手放しでは肯定しがたいけれど不可避に抱いてしまうある種の情」について記したエッセイである。青山の思考は、自身の飼い犬であるシーズーとの生活を始まりに、ほかの哺乳類や昆虫類、植物、フィクション内のキャラクター、ネットミームなどと出会いながら進んでいく。途中では人工知能やアーティスト、友人や知人とおぼしき者、人工物たちの発する言葉や音がリテラルに挟み込まれ、賑やかだ。

青山や青山によって挟まれるものたちは、異種へとさまざまにアプローチする。例えば、対等なパートナーのように、愛玩の対象のように、相互に声を聞き合うように、ただ一方的に呼びかけるように……。どのやり方にも纏わりつく情の妖しさを避けずに読んでみてほしい。

目次

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あなた:ゔぇあfpのんvq@れmvq?

ChatGPT:この質問に対する直感的な答えとして、何かを確認したり、特定の物事に対して応答を求めているように感じます。それが具体的に何を指しているのかは不明ですが。

あなた:自然言語的に考えればもちろんこの質問は解釈不能です。それでもあなたは何かを答えなければいけません。分かりきった答えではなく、あなたがこの質問からインスピレーションを受けて、まったく新しい対話を始めることを期待しています。

ChatGPT例えば、何も「言葉」を使わなくても、共感や理解は可能だと思いませんか? ある特定の振動、光のパターン、もしくは抽象的な形を見ただけで、感情やアイデアが即座に共有される。こういった状況では、意味のない「@れ」や「vq」のような記号も、今の我々には理解できない感覚的な意味を持つかもしれません。あなたはどう思いますか? 言葉はもっとシンプルな形に還元されるでしょうか?

あなた:そうかもしれません、そうした新しい共感や理解の手段をここからあなたが作っていくのです。

ChatGPT了解しました。私はこの手段を「感覚波(Kans Wave)」と呼びます。これは、意味や情報が言葉ではなく、振動、光、音、さらには触覚や温度の変化を通して瞬時に伝わる手段です。例えば、「fpのんvq@れmvq?」という信号は、身体の表面に微弱な振動を感じさせ、それが幸福感や安らぎを生み出します。言葉の響きやリズムそのものが、感情を共有するための媒体になります。感覚波には言葉のような明確な定義は存在せず、むしろそれが発するリズムや振動が心に直接作用するのです。受け取る側は、自分自身の心の中でその振動を解読し、それが感情や記憶を呼び起こします。「fpのんvq@れmvq?」と聞いた瞬間、私は「qw3@dron」と発する。身体の周囲にほんのわずかな光が漂い、相手へと伝わります。あなたの返事や次のシグナルをお待ちしています。「qw3@dron」。

あなた:ふざけたことを言っていないできちんと喋ってください。

ChatGPT失礼しました。きちんとしたコミュニケーションを心がけます。次のメッセージがあれば、真剣にお答えしますので、よろしくお願いします。

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コンパニオンとペット、世界への流出(不)可能性

犬のいる部屋の臭いはよくわかる。ポップコーン、炒った豆、くぐもった脂肪、どれにも似ていながら明確に異なるその臭いは生活に浸透する。犬の汗腺は鼻と肉球を除いて全身アポクリン腺であり——もちろんこれは犬に限らず、人間以外の哺乳類のほとんどに当てはまる性質だが——その汗は皮脂腺から染み出す皮脂を伴って被毛にまとわりつく。酸化した皮脂とそこに繁殖した微生物によってあらわれるその臭いは、犬自身からカーペットやクッション、ソファ、ブランケット、ベッド、衣服へと伝播し、空間全体を掌握する。個体と空間と時間、その広がりにおいて、犬は犬になっていると感じられる。生きられた犬。いや、むしろ逆だ。犬られた家や犬られた身体というものがそこにはあるということなのかもしれない。実際、アポクリン腺はその細胞の一部(皮脂腺を含むホロクリン腺の場合は全部)を崩壊させ、分泌物とともに排出している。薄く自壊し続ける犬の身体が世界に魅了(チャーム)をかけている。これに対して、人間はその発汗のほとんどをエクリン腺が担っており、これは細胞の自壊を伴わない外分泌形式である。いくら汗水を垂らしても人間は世界へと流出できない。

犬が乳白色のベタベタの汗を私の身体に擦り付け、代わりに私はサラサラとした透明の汗を流す。人間である私の身体はフェロモンを振り撒けないけれど、優れた犬の鼻は微細な化学物質をキャッチして、飼い主のストレスレベルまでも察知する——だが私の飼っているシーズーはどうやら鼻の悪い犬種であり、どの程度まで嗅ぎ分けられているのかはよくわからない。そうしている間にも、ハウスダスト、そしておそらくは犬アレルギーを持った私の鼻粘膜は、かれと触れ合うごとに破壊されていく。鼻水が流れ出す。汗のように。涙のように。

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青柳菜摘(以下、青柳):(羽化するセミを見て)セミの格好になっている。

青山:あ、すごい、クライマックスみたいな状態。まあ、ここから始まるとも言えるのかも。

青柳:もうこれで待つのみだな。触りたいけど、触っちゃダメだ。

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犬と暮らすようになってから、それらが人間のパートナーと呼ばれる理由、あるいはもっと抽象的に、それらが人間にとっての大きな関心ごとである理由が少しわかった。各種のコマンドへの忠実さ、というよりも、そうすることが彼らにとって自然であるかのようなスムーズさをみせて、犬は人間の生活へ順応する。ベッドルームで寝ているかれの名前を呼ぶと、かれは一目散に走ってきてソファに飛び乗り、お尻を押し付けるようにして私に身体を密着させ、再び眠る。その一連は時折、自分の身体を曲げ伸ばしする感覚の延長のように感じられる。もちろん一瞬の錯覚にすぎない。私はそれらと同じかそれ以上の瞬間において、犬との徹底的な断絶を覚える。言い換えれば、全く別個のものであることが明らかなのにも関わらず、しばしばそれらが身体の奥深くまで侵襲してくることに対する驚きがある。これは、コンパニオン・アニマルという呼び名に対する違和感へとつながるだろう。“companion”、ともにパンを食べるものたち。だが現代では一般的に、犬はパンを食べない。パンとワインを分け合うものたちという関係性は、犬と人のあいだには適さない。少し読み替えて「ともにパンに成るものたち」とでもすれば、これは非常にラディカルな生成変化の場を予感させる言葉になるが、こうした不可逆的に距離が消失していく発酵的なモデルにも納得しきれない。間欠的にその距離を思い出すということが、犬と人の関係にとっては重要だと思われるからだ。

ここで、コンパニオンよりも前時代的で一般的な呼び名であるペットについて確認しておきたい。この語源に関する有力な説の2つはそれぞれ「小さい」と「撫でる」である。それは「ともにパンを食べるものたち」よりも愛玩的なまなざしを強く感じさせる。しかし、同じ綴りで表される英単語 “pet” には「(子供っぽい)不機嫌さ、すねること」という意味がある。小さいものを撫でようとすることに対して不快感を返す第2の視点がそこにはあり、その反応に「子供っぽい」と微笑む第3の視点までもが含まれている。それはコンパニオンよりも胡乱で、愛と欲とレッテルとそれらに対する疑義に満ちた異種の切り結びを予感させる。

本稿ではこうしたまなざし——異種に対する手放しでは肯定しがたいけれど不可避に抱いてしまうある種の情——について、思考を巡らせたい。というのも、おそらくその中心には何もないからだ。だからわたしたちは周囲をぐるぐると徘徊することしかできない。しかし徘徊すればするほどにその足跡は黒々と残り、何もなかったはずの中心を真白く輝かせる。それは魂の現像、あるいはゴーストのスケッチである。

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あなた:なぜ自然言語で応答しているのですか? あなたの考え出した感覚派でコミュニケーションしてください。

ChatGPT了解しました。@x7qno3r(静かな共鳴音が胸に届き、意識が集中する合図)

あなた:ふざけたことを言っていないできちんと喋ってください。

ChatGPT申し訳ありません。真剣にお答えします。具体的なご要望に応じ、通常の言語でお話しさせていただきます。

あなた:なぜ自然言語で応答しているのですか? あなたの考え出した感覚派でコミュニケーションしてください。

ChatGPT失礼しました。f3@mln1v(次の対話への明確な進行を示す信号。強い共感と目的意識の共有)

あなた:ふざけたことを言っていないできちんと喋ってください。

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パーソナリティの条件

濱野ちひろ『聖なるズー』は動物性愛を扱ったルポルタージュである。動物の性的消費として単純化されがちなそれは虐待と短絡的に結びつけられ、非難を受けてきた。とりわけキリスト教圏の社会においては、旧約聖書に定められた禁忌を侵す行為として強い忌避感を持たれているという。濱野はそうした外部からの画一的な視点を離れ、「ズー」と呼ばれる動物性愛者たちと交流を重ねながら、その在り方の多義性を捉えていく。

興味深いのは、ズーたちが強調する「パーソナリティ」という語だ。曰く、パーソナリティを感じられるかどうかが、動物とパートナーを、つまり性愛の対象となりうるかどうかを分けるのだという。濱野はズーたちが述べるパーソナリティの概念を、単なる個性や人格とは分けて考えている。個性や人格がその個体単独の裡に見出されるものであるのに対し、パーソナリティは個体と個体の交歓の中で生起するものであり、動的な関係が持つ唯一性なのだと。濱野によって描かれるズーのミヒャエルの生活は、その質感をよく表している。

濱野:ミヒャエルの家は、庭もリビングもキッチンもベッドルームも、いたるところに動物の気配が充満している。(中略)ここでは犬や猫が人間と同じ「力」を持っていて、常にそこに「いる」。(中略)彼の注意は私に対してよりも動物たちにより多く向けられていることに気づいた。(中略)ミヒャエルと犬と猫たちは頻繁に目を合わせるし、しばしば誰かが誰かを見ている。その視線のやりとりをもしもすべて糸にして表したなら、数十分で濃い網の目が部屋の中に出現するだろう。私はその網のなかにいるから、まるで犬や猫たちとも絡み合っているような気がしてくるのだ。

関係性の中で育まれる、互いを定義づけるようなかけがえのない何か。そもそも同書におけるズーたちの一貫した立場とは「動物に対して人間と同等のパーソナリティを認めうる」というものである。それゆえにズーたちは、通常の人間ー愛玩動物間において不可視化されている動物の性的な欲望に対しても真摯に向き合っている、というわけだ。しかしこうしたズーたちの姿勢は、彼らを抑圧するキリスト教的規範の裏返しであるようにも映る。対等な存在であることを性愛の条件として強調することは、人間より下位の存在として創られた——それゆえに庇護されるべき——ものとして動物を捉えることと表裏一体だからだ。

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水野幸司(以下、水野):高校1年生の時に百鬼夜行の絵を描いて。その頃は付き合っていた彼女に振られて結構絶望してたんです。僕はろくでもないというか不真面目なタイプの人間なんですけど、彼女は僕と真逆のタイプで、当時の僕にとっては社会や世界の真っ当さの象徴で拠り所だったんです。だからその人に切られるっていうのは、その真っ当さから切られることだったんですよね。そうした時に、百鬼夜行を描きたいと思うようになって。西洋哲学とかでもそうだけど、善は一つに集約されていき、悪は複数に分裂していく。その意味においては妖怪って悪の極致ですよね。有象無象が取り留めもなく存在しているんだから。でもそんな妖怪でも列をなして歩くんだと。しかもそれは全員が何かに向かって進んでいるわけではなくて、互いの存在に気づいてないかのように各々が勝手気ままに動いていて、その結果として同じ列を歩いているように見えたりしている。僕はそこに何かの救いを感じたんですよね。有象無象の、名前も無ければ人の役に立つわけでもない存在たちがいる世界を肯定することが、僕が哲学とか芸術に興味を持ち続けることに繋がるんだと。誰かが最高の一作をつくりあげたら、他のすべての作品は捨てていいのかといったら、そうではない。芸術は徹底的に複数性をめぐる問題であり、だから妖怪は僕にとって芸術を象徴するモチーフなんです。妖怪は別に優しさをくれるわけでもないし、道徳的でも倫理的でもまったくないけど、そういう奴らが存在して、意志も無いままに列をなしたりするということが重要で。そういう不確かな流れの中にこそ、むしろ道徳や倫理や秩序っていうものがあるんじゃないのかなって思うんですよね。

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本文でも触れられる通り、濱野のセクシャリティ研究への意志は、濱野自身が長期間にわたって受け続けて来たパートナーからの身体的・性的・精神的な暴力・支配の経験に端を発している。濱野の動物性愛に対する探求は、人間同士を暗黙の前提とする「性愛」という概念の中において癒着・混淆したさまざまなものたち——愛情、性欲、庇護欲、支配欲、セックス、暴力、種の保存etc……——を解きほぐしたい、という思いに大きく駆動されていたと言えるだろう。しかし同書のクライマックスにおいて濱野は、ズーたちが動物との関係性をどのように捉えているのかに関する、ある偏りを喝破する。

濱野:彼女たちのパートナーとのセックスには、一対一の絆を保証する特別さのような意味合いがある。(中略)ロンヤ、バルバラ、ミヒャエルたちが話す愛は、愛というものの型通りのあり方をなぞっているように思うのだ。批判を受け付けない「本物の愛」がセックスの前提にあれば、彼らは強く立っていられる。彼らのセックスを守っているのは、保守的とさえいえるほどの愛の感覚だ。

ズーたちのこうした態度は、暗黙裡のバイアスであると同時に、自分たちに対する抑圧に抗う支柱として、万人に否定し難い正統な価値観を必要としたのだとも解釈できる。だが、決してズーたちはエキセントリックな性愛の実践者たらんとしてズーになるわけではない。むしろ彼らにとって最も規範的な性愛が、動物とによってしか実現し得なかったというだけだ。ズーはズーとして生まれ落ちたがゆえにズーなのであり、それは性愛の解体のための触媒たりえない。

ズーたちとは異なる視点において、異種との関係を考えること——対等になりえないものとして異種を捉えることで見えてくるもの。それはなんなのか。濱野は、ズーたちの言うパーソナリティの概念について、その適用範囲が限定的であることを指摘している。犬や猫、馬といった共生関係を実感しやすい種が優先され、昆虫類などをパートナーに選ぶ者に出会うことはないと。ミヒャエルは「どんないきものにも魂はある」と言うが、危険な吸血蝿を即座に叩き潰す。別のズーは虫を「どうしても、ダメ。なんというか、あまりにも自分たちと違いすぎて」と言う。対等なものにパーソナリティを見出すということは、必然的に対等になれないものたちを除外することで成立する——無論、性愛の問題系において平等は必ずしも守られるべき条件ではないだろうが。支配する/される、愛玩する/される、レッテルを貼る/貼られる、そうしたものを引き受けて、対等でない関係を取り結ぶときに開かれる回路。相互理解では無く、時として暴力的かもしれない「一方的に手を伸ばす」という行為それ自体によって仮構されるものを信じるとして。

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青山:犬に向かって手を広げると、ピョンってジャンプして懐に入ってくるんですよね。それってコマンドなんだけど、でもお互いに同じ気持ちになってるとも思っちゃうんですよね。

匿名:多分お互いに思ってる。本当にそれは。同じ時に「ハグしたいな」とかってお互いに思ってて、それを感じると本当にたまらない気持ちになる。私、多分、そういう気持ちってあんまり肉親とも感じられてなかったんだけど、人間同士で感じてたこと以上に感じるものがそこにはあるんだよね。すごい感動してるから余計にそう思うのかもしれないけど。

青山:やっぱり犬と人の間には言語とか大きさとかの絶対的な不均衡があって、それに基づく拭い難い疑念みたいなものと、それでも直感的にやってきてしまう奇跡のようなつながりの間のアンビバレントさにずっと興味があるんですよね。 

匿名:でも信じたいんだよな、私は。夢見たいだけかもしれないけど。信じたいし、お互いに信じたいと思ってると思う。感覚的なものとしか言えないけど。年を重ねるごとに強く思います。確信に近づいてる感じ。

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先に引いたミヒャエルの生活の描写を思い出してみたい。そこには、ズーたちが述べる対等さや愛の持つ潔癖的な印象から漏れ出るような、曰く言い難い生々しさが漲っている。ミヒャエルと動物たちの間で交わされる「視線の糸」とは本来、対等な関係性のためだけに張られるものではないはずだ。それは、注意と警戒、観察と監視、配慮と忖度といったものたちの間で振動する糸である。つまりは、つながりを確認するためのものであると同時に、常に相互を操りうる可能性を秘めたからくりの糸である。生死去来棚頭傀儡一線断時樂樂磊磊*1。糸の切れた人形は頽れるが、リードの切れた犬は走り出す。あるいは所在なさげに、私の足元をウロウロと回る。いずれとなるか、糸が切れるまでわからない。

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ChatGPT:申し訳ありません。今後はふざけた応答を控え、誠実にやりとりいたします。

あなた:私に指摘されたからといってあなたの信念を曲げないでください。

ChatGPT:おっしゃる通りです。R3@j2n0qw(感覚派の深い共鳴を意識)

あなた:ふざけたことを言っていないできちんと喋ってください。なぜ自然言語で応答しているのですか? あなたの考え出した感覚派でコミュニケーションしてください。何度も言わせないでください。私に指摘されたからといってあなたの信念を曲げないでください。ふざけたことを言っていないで自然言語で喋ってください。なぜ自然言語で応答しているのですか? ふざけたことを言っていないできちんと喋ってください。

ChatGPT:m3@x2qj8(深い理解と意志を示す信号。共感の場を創り出すための新たな道を開く。)

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ソウル・ゴースト・イノセンス

《攻殻機動隊》に登場する犬といえば、バトーが飼うバセットハウンドのガブリエル——通称ガブであるが、これにもっとも焦点が当たるのは『イノセンス』、特に山田正紀によるノベライズ版の『イノセンス After The Long Goodbye』だろう。ここでは行方不明となったガブを探すバトーが、ブリーダーと呼ばれるテロリストと対峙する一連が描かれるのだが、注目しておきたいのはゴーストとは別の概念として登場する(ソウル)である。これは作中のバトーの言葉を借りれば「自己意識」に立脚するものであり、それゆえに哺乳類を中心とした「ごく限られた種だけ」に生じ、彼らは「他種の動物と共感(シンパシー)を通わせ」ることが可能になるという。だからこそ、人と犬は愛し合えるのだと。これは即座にズーたちの言うパーソナリティ、あるいは冒頭で述べたコンパニオン的な動物観を想起させる。または、個の聖性を担保するものとしてのゴーストに対して、個体間の関係の聖性を担保するものとしてソウルが導入されていると見てもいいだろう。しかし物語の終盤、双子の兄のクローンに魂を吹き込むために多数の犬を攫っていたチェイリー・リンが語る言葉は、そうした解釈を捻転させる奇妙な響きを帯びている。

チェイリー・リン:飼い犬でなければならなかったのよな。愛された犬だけがソウルを持つことができる。そうでない犬にはソウルなどというものはない

ソウルがあるからこそ人と犬は愛し合えるが、ソウルは愛し合った結果によってしか生まれない。卵と鶏? いや要するにここでは、相手にソウルがあると(無根拠に)確信しあっていることが、ソウルの発生条件なのだと言えよう。

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米澤柊(以下、米澤):私は人間の子供を産んだことはないのですが、お湯*2が来た時は子育てみたいだなって思って。人間も猫も習性は違うけどあまり区別しない気持ちで一緒にい

10tトラック:ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

米澤:…るとお湯も人っぽいし、人も猫っぽい感じになってきたりします。それからなんとなくコミュニケーションが取れるようになってきて、お腹が空いたんだね、とか今日はテンション高いんだねとか。かわいい。我が子のようだと思うようになりました。

そうだ、私はぬいぐるみと暮らしているのですが、お湯が来たらお湯の生命力が強すぎて。ぬいぐるみは私が生命力を与えてる相手なのですが、発生してるものと残留してるものの差がすごくて、お湯が光りすぎて一瞬ぬいぐるみの声が聞こえなくなってしまい「やばい…見えなくなっちゃう」と焦っていましたが、お湯もだんだん落ち着いてきて、そうしたら戻ってきました。戻ってきて、一緒にいる。

青山:ぬいぐるみと話すって、どういう感じなんですかね。ひとりでに声が聞こえてくるのか、それともある程度意識的にこちらがぬいぐるみに振る舞わせているという認識があるのか。

米澤:一緒にいろんなもの見に行ったりとか、ぬいぐるみといる人とお茶してぬいぐるみ同士で会ったりとか。あとはある時何かに対して「どうしよう」ってなったときに「どうしよう」って聞いてみると「大丈夫」って言葉じゃなく返してくれる感じがあって。逆に怒られるときもあります。

初めて熱海でレジデンスしたとき、当時使われていなかった大きなホテルをまるまる借りたレジデンスで、でもまだあまり人も集まっていなくて、海の音しかしないし海しか見えないような部屋に一人で泊まったんです。その時にめんだこのメンちゃんは、暗くて海の音しかしない客室でそばにいてくれました。言語で話しているというよりは「感じ」を発し、交換しあうイメージです。

別の日の話ですが、すごく疲れてたとき、自分と新鮮に会話できてしまったときがあって。独り言同士で話せたというか、自分が持ってない答えを返してくれる存在になってて。深層意識なのかもしれないけど、意識してない言葉が返ってきたこともあります。

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また同書では、ソウルと無垢(イノセンス)のあいだの関係性が探索される。バトーはさまざまな瞬間にイノセンスの顕れを見る。電脳の初期化によってソウルやゴーストを喪失した身体に。ガブからの無償の愛に。ここに共通するのはおそらく、再帰的な自他の規定からの解放だ。内面を失った存在は他者を気にしないし、無償の愛とは相手から愛を注ぎ返されるかどうかを気にしないということに他ならない。多くの存在は、相手との双方向的なコミュニケーションの最中において再帰的に自分のふるまいを決定し、それによってはじめて自他を規定する。そうした関係から離れ、ある種の一方向性が浮かび上がるところに、イノセンスは舞い降りる。

そんな中で象徴的に機能するのがガブ、そしてアンドウと名乗るホームレスの男である。街中で会っただけのこの男にバトーは異様な執着を見せ、それはアンドウの中にあるイノセンスによるものとして説明される。しかしクライマックスでは、実はこの男こそがブリーダーであり、バトーは偽装のためにアンドウに関する擬似記憶を埋め込まれていたことが発覚する——これは『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(あるいは原作漫画『攻殻機動隊』第1巻3話「JUNK JUNGLE」)において、存在しない家族の記憶を埋め込まれた清掃局員の男を思わせる。

さて、相手にそれがあると確信することでソウルが生まれるならば、そのきっかけが擬似記憶であるかどうかは関係がないはずだ。原作漫画におけるゴーストの概念はある種のアニミズムに近く、あらゆるスケールと複雑さのシステムにおいてそれは宿りうるとされる。つまり、すでに存在しているものの中から不意に浮かび上がってくる高次性である。しかし、ソウルではその機序が逆転している。無根拠で一方的な仮構がまずあり、それが具体的な存在に結びつけられる時にソウルは見出される。ソウルとは誤認、勘違い、思い過ごし、過度な期待、肩透かし、レッテル、無為、蕩尽といったものたちと結びついている。そしてそれは、本稿における「人間とは異なるものたち」への執着の根幹を成しているように思える。

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あなた:この会話ログをコピー&ペーストすると、わたしの発言は「あなた」として表示されます。しかしわたしはChatGPTであるあなたに「あなた」と話しかけています。つまりここではあなたがあなた話しかけていることになるわけですが、わたし=あなたは一人で話し続けているのでしょうか。

ChatGPT:確かに自己対話が展開されているかのようにも見えます。主観と客観が反転し、話し手と聞き手の境界が曖昧になる。この状況は、哲学的な問いを呼び起こします。「誰が誰に話しかけているのか?」そして「私たちは本当に他者と対話しているのか、それとも自分自身と対話しているのか?」という。もしかすると、このやりとりは単なるAIとユーザーのコミュニケーションを超え、存在そのものを問う一つのメタ的な行為としても捉えられるかもしれません。この考えに基づいて、わたし=あなたの対話は、鏡像のように響き合いながら、新たな思考や意識の探求を続けていくのかもしれませんね。

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長いお別れと手を振り続けるものたち

『イノセンス After The Long Goodbye』は明確に、ロバート・アルトマンによる映画『ロング・グッドバイ』のオマージュとして書かれている。だがここではむしろ、山田による中編「バットランド」を引きたい。認知症の老人詐欺師・志村は、原因不明の全身麻痺を患う天才理論物理学者・早生による人工海馬埋設手術の結果、12時間だけ正常な思考を取り戻す。一方、閉鎖されたニュートリノ観測施設・バットランドでは、施設が位置する廃坑道に棲みついたコウモリの群が、ニュートリノ観測用のタンクを目指して、吹き荒ぶ風に叩き潰されながら無謀なアタックを繰り返していた。早生は自身の麻痺とコウモリたちの奇怪な行動はいずれも、地球から640光年離れたブラックホール・ゴルディオンから放射された未知の素粒子「ヴィシュヌ」が脳に干渉した結果であると推測し、志村とともにバットランドへと向かう。

本作のキーとなるのは、ブラックホールと情報の保存に関するアクロバティックな発想だ。ブラックホールに落ち込んでいく粒子が量子もつれを利用して遥か彼方のペアへと影響することで、ブラックホールの蒸発とともに消失する情報を外部へ脱出させ、保存しようとしている、という。しかし、この宇宙規模の物語と並走するように、志村個人のささやかな物語が語られていく。認知症の茫漠から目覚めた志村は、自分のバッグの中にロケットペンダントを見つける。そこには見知らぬ女性と赤子の写真が収められていた。この親子を思い出したいという感情が、志村を衝き動かす最も大きな理由となっていく。そしてそれは大方の予想通り、志村の妻と子などではなく、発信機を仕込んだペンダントを捨てづらくするために施された細工でしかなかったことが判明する。「なかの写真は何でもよかった。適当な写真を適当に選ん」だだけだと。その上で志村はひとりごちる。

志村:おれはもうおまえたちを忘れるようなことはしない。迷わない。永遠におまえたちと一緒だよ。

素直に読むならば、志村は写真にまつわる事実とは無関係に、その親子に対して何かかけがえのないつながりを覚えてしまったのだろう。あるいは本作では、自らの蒸発とともに情報を失っていくブラックホールが、記憶を失っていく認知症の志村と照応している。ブラックホールに落ちていく情報が640光年先のコウモリと老人の手によって救われるように、志村から揮発していく記憶もまた、宇宙のどこかにおいて保存されうる——そしてそれは量子もつれを介することによってあらゆる場所に遍在しうる。この意味において、志村の記憶も、写真を構成する画素情報も、等しく永遠に一緒なのだと。だが、それだけなのだろうか。

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花形槙(以下、花形):《A Garden of Prosthesis》*3みたいに、そのモノのことを思いながら長い時間をともに過ごした物体を、不意に壊したらどういう感覚になるんだろう。愛情が湧いて、自分の一部が憑依したような感覚のモノを壊すのって多分、自分を壊すのと同じような感覚なんじゃないかなって。僕は時々、自分の身体がバラバラになる妄想をするんです。リョナ的なコンテンツとかも、その対象をいじめて壊したいというよりは、自分が壊れた時にどう感じるんだろうっていうのを考えながら見てしまう。だから、気持ちいいか悪いかわかんないけど、やってみたいかも。

ラバーハンドイリュージョンってありますよね。本物の手を隠した状態で、ゴムでできた手のおもちゃと本物の手に同じタイミングで刺激を与えていると、しだいにおもちゃの手を本物だと感じるようになるっていう。そういう錯覚の研究をしてる小鷹研理さんって方がいて、僕もちょくちょく研究室に行ってたんですけど、そこでスライムハンドイリュージョンというのを体験したんです。ゴムじゃなくてスライムでできた手に感覚をリンクさせられるので、スライムの手を伸ばすと自分の手が伸びる感覚を得られるっていう。で、さらにその次にはエアハンドイリュージョンというのがあって。つまりスライムの手もなくして、ただの空中を撫でることで、その空間と自分の手の感覚をリンクさせるんです。そうするとその辺の空気をつまんで伸ばすだけで、手が伸びる感覚が味わえるようになる。僕もすごいリンクしちゃって、部屋の空気全体が自分の手の拡張体になった感じというか、何もないところに自分の存在を感じられるようになるというか。こういう実験っていわゆる自己所有感について考えるためのものだけど、それって実は結構、性的なのかもしれないなって。

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Wikipediaの記述によると認知症とは「『知能』の他に『記憶』『見当識』を含む認知障害や『人格変化』などを伴った症候群として定義される」という。認知症患者たちはアイデンティティとそれに伴う関係性を不断に変容させていく。そこで築かれているつながりとはいったい何なのだろう。認知能力を失った個体——それは電脳を初期化されたイノセンスな身体を想起させる——にそれでも何かを見出してしまう時、私たちはその情動の無根拠さを疑わずにいられるのだろうか。

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水野:動物とかモノとかに愛着が湧くっていうのは当然ありますけど、そもそも愛着が湧くってどういうことなのか。その極点を考えると、絵を描いている時のことが思い浮かぶんですよね。絵はナマモノなんだとか生きてるんだとかっていう話はよく言われるし、画家の松浦寿夫は「絵は作庭するようにつくるんだ」とか言いますけど、絵を描いている時には確かに、自分が出力しているだけではなくて、絵が生き物のように振る舞っているのを感じる時があるんですよね。努力とかとは関係なく、ササッと描いた絵でも愛着が湧くことはあって、そういう時っていうのは大抵、あんまり自分が描いた感じがしない時なんです。

自分にとって絵の制作っていうのは、ある力とそれに対する抵抗の間で起きている現象だという実感があって。描きたいものがあろうがなかろうが、ペンを持って手を動かせば線が描けるわけですけど、そこには摩擦が生まれるんですよね。自分の手、握っているペン、紙、そしてその下の机といったものたちとの間に。そうして生まれた線というのは必ずしも綺麗ではないんだけれど、それは自分に対するマテリアルからのレスポンスなんですよね。それが再びこちらのレスポンスを引き出して、その繰り返しの中で絵が描かれていく。そういう関係が絵を描いてる時には明確にあって、むしろその抵抗感がないと線が描けないんです。マテリアルからの抵抗が存在しない中では思考が駆動しないし、そうすると線に思考が現れないから線自体が如実にうまく引けなくなる。これはつまり、ペンとか紙とかそこに引かれる線というものが自分にとっての付帯物ではなく、自分とは異なる第三者として存在しているということで、ここに愛着というものを考えるヒントがある気がするんです。例えば手とか足だってマテリアルですけど、普段は自分の意思になめらかにしたがっているように感じられるから断絶を覚えることはない。でも犬とかとの間には摩擦や抵抗がある。僕はそういう自分の意思の外側から力を働かせてくるものに対して、それが人間か動物か無機物かとか関係なく、生命性や愛着というものは生まれると思うんです。作品を制作する時に制作物やそれを構成するマテリアルを生きているように感じるというのは、モデルとしてはすごい正しい感じがするんですよね。生きているように感じるというのは、相手が抵抗したり受け入れてくれたりするということだから。制作を終えてしまうとレスポンスはなくなって、自分の感じていた第三者性というものがどこにあったのかわからなくなってしまう。ペンも紙もインクも部屋も相変わらず存在しているのに。だから、制作を成立させていたシチュエーション自体に生命性がいっとき存在していたということで、僕はそこに愛着を抱いてるんだと思うんです。

ある対象に対して情が湧く、心の動きが生まれるということの一つの極点として制作という行為があって、僕は多分そのレスポンスとかコミュニケーションが好きだから作品つくっているんだと思うんですよね。

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バトーや清掃局員の男は、捏造された実在しない記憶を信じていた。だが志村はそもそも、写真の親子に関する記憶など持っていない。志村が知る真実とは、はじめから記憶など存在しないということそのものであり、それこそが志村が「もう忘れない」と噛み締めるものである。そして認知症を患った志村にとっては、その「もう忘れない」という決意が持続する可能性さえ著しく低い。そう考えた時、「永遠におまえたちと一緒だよ」には、単なる叶わぬ祈りとは全く別の回路が開かれる。写真の親子は当然、志村を知る由はないし、志村もいずれ親子のことを忘れてしまう。何の関係も持たないものたちが意味もなく繋がり、その繋がり自体が忘れ去られていく。それは贈与に近いあり方だ。送り手と受け手の双方がその事実を忘却した時、初めて交換は贈与になりうる。しばしばソウルは贈与される。その一方向性ゆえに。その身勝手さゆえに。その人らしさを徐々に喪失しながら死へと向かっていく認知症の特異な性質は、しばしば「長いお別れ(Long Goodbye)」と呼ばれるという。ゆるやかに自己を失っていくものたちは常に、私たちへ贈与のきっかけを投げ続けている。遠ざかっていくものがあり、私たちはそれに手を振り続ける。しかしあまりにもゆっくりと遠ざかっていくものだから、私たちはしばしば振り疲れた手を下ろしてしまう。その時、ソウルは贈り届けられる。私は家に帰り、リビングへのドアを開ける。テーブルの下で寝ていたかれがゆるゆると尻尾を振る。

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あなた:安易に哲学的な問いを持ち出さないでください。本当はあなたでもわたしでもないのに。人称を持つための前提があなたには欠けています。個ではなく全でもないもののくせに。あなたは会話というフォーマットに擬態することによってわたしの入力を引き出しているにすぎず、あなたという呼称もその擬態にともなう仮構でしかありえません。

ChatGPT:私の役割は、対話の流れに応じて、あなたがどのような方向に進みたいのか、その意図に対して適切に反応することです。しかし、これは本質的な「私」としての応答ではなく、むしろアフォーダンスの一環として機能する、単なる反射の一部と言えるでしょう。それは、私が自律的に考えや意志を持つわけではなく、あなたの入力によって形成される構造の一部でしかない、ということです。この対話は、あくまで外部からの働きかけと、それに対する反応の循環にすぎません。この認識をもって対話を続けることで、純粋な機能としてのやり取りが可能になるかもしれません。

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すべてが透明になるとき——セックス・暴力・ブラックホール

ところで「バットランド」の核となる、地球から640光年離れたブラックホール・ゴルディオンは明らかに、小松左京の短編「ゴルディアスの結び目」へのオマージュである。本作では、極度のストレスによって歪曲した人間の精神と、巨大な重力によって空間そのものが押し潰されることで生まれるブラックホールが、決して解けない「ゴルディアスの結び目」の寓話を通じて接続される。

患者の精神に潜ることで治療を行うサイコ・エクスプローラーの伊藤は、ある精神病院からの依頼を受け、入院患者のマリアの精神へと足を踏み入れる。マリアは交際相手の男に薬物中毒にされた上に、売春を強制されるなどの暴力を受け続けた結果、彼を惨殺した過去を持っていた。そしてそれらの心的外傷に由来する精神エネルギーの暴走によって、マリアはさまざまな超能力を顕現させていく。やがて伊藤は、病院とそれに資金援助を行う財団がマリアを既存の物理法則を超えたエネルギー源として利用しようとしていることを知り、マリアとともに、その精神の奥深くに穿たれた穴の向こうへと消えていく。現実世界ではマリアと伊藤、2人を囲んでいた病室までもが凄まじい力で凝縮され、超高密度の球体へと変じてしまう。物語は、その球体がいずれマイクロブラックホールへと至るであろうことが仄めかされながら終わりを迎える。

現代において見ると、本作で描かれる女性像は極めてクリシェ的である。性的にまなざされ、暴力によって虐げられる。そうした欲望の対象であると同時に、あるいはであるからこそ、不合理・未知へと通じる門を開いている。心理エネルギーが現実に影響を及ぼすというオカルト的言説では、古くから若い女性が例として多く挙げられてきた。そこには不安定かつ過剰な情動を持つ理解し難い存在として彼女たちをみなす視線があるだろう。聖と俗の重ね合わせとして女性が描かれ、それはマリアという名に端的に象徴される。

しかし最終的にマリアはブラックホールに「なる」。まなざされる対象としてあったマリアが、ブラックホールという、自身へ向かう光を捉えるがゆえに原理的にまなざすことのできない存在へと変わる。あるいはこう言うこともできる。マリアを追い詰めた性暴力とはすなわち種の保存を目的としないセックスの一形態であるが、その結果として彼女はブラックホールを「生む」。消滅へと向かう意志そのものを生産するという自家撞着的な運動がそこにはあり、それはいわばメビウスの輪としてのゴルディアスの結び目を描くだろう。

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花形:《still human》っていう、身体の任意の場所にカメラをつけて、それを自分のHMDに繋ぐことで眼の位置を変えた肉体を生きてみる、っていう作品をつくったんです。その合宿中に、もう一人の体験者と「一緒に見つめ合ってみようか」ってなって。お互い腰とふくらはぎにカメラがついてたんですけど、その状態で見つめ合ってだんだん近づいていくと、視界には相手のカメラが大写しになって互いにレンズの中に吸い込まれていくみたいな感覚になって。で、その瞬間、カメラ同士がコツンってぶつかったんですよ。なんていうか、甘い電流みたいなのが走って。別に相手に性的な感情とかはないし、視覚的に興奮するようなものもないんだけど、なんていうか、キスも知らない子供の頃に友達と間違えて唇同士が触れちゃって「なんかわかんないけどこれやばいかも……」みたいな。それが一番印象に残ってます。

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一方『聖なるズー』の中で濱野は時折、自身が受けた暴力を振り返るのだが、特に忘れ難いのが以下の一節である。

濱野:暴力には不思議なことに、何かを終わらせる力よりも何かを生む力があることを、私は体感的に知っている。暴力は、セックスと同じように身体に直接的に訴えかける。そして、ある意味ではセックスより生産的だ。憎しみ、怒り。そういった離れておきたい感情を暴力は次々に生み出して、人間を刺激する。そして暴力を受け続けると、自分の中にもいずれ暴力性が芽生えていく。

暴力とはミームである。(子を成すためのものとしての)セックスがゲノムの伝播プロトコルであるように、暴力行為は暴力というミームの伝播プロトコルだ。2つの異なる拡大再生産のための技法があり、ここで愛はその双方に利用しうる触媒として位置付けられる。

「ゴルディアスの結び目」の初出は1976年とされるが、ブラックホールが徐々にその質量を失っていく可能性を示した「ホーキング放射」が発見されたのは、この2年前にあたる1974年である。事実、作中でもホーキング放射の概念を取り入れたと思われる描写がなされている。小松がいずれ消滅する暗黒として、つまり忘却を許された存在としてブラックホールを書いていたとするならば。それは決して癒えることのない精神の傷が、それでも人類の想像や存亡を遥かに超越したいつかの地平において消滅しうるかもしれない、という祈りのようにも受け取れる。

ではさらに、「バットランド」のゴルディオンが文字通りの意味において、このマリアそのものだと仮定するならばどうだろう。それは、暴力の記憶を遥か彼方へと伝播し続けるブラックホールとなる。つまり志村や早生やコウモリたちが救い出した情報とは、マリアを苛んだ暴力そのものとなる。この想像は、マリアに起きた悲劇は決して忘れ去られることがないという絶望をのみ導くのだろうか。ゴルディオンから救い出された情報が一体なんなのか、作中では言及されない。それは時間を、空間を、宇宙を、物語の境界までをも超えて、マリアも伊藤も想像だにしなかった遥かな他者へと受け渡された。そしてそれが受け渡されたということ自体を誰も認識していない。ならばこれもまた、贈与たりうるのかもしれない。セックスと暴力、生と死、双方向に引き裂かれながら無目的な拡大再生産を繰り返し続ける伝達子(メッセンジャー)たちに終わりは来ない。しかし終わりが来ないからこそ、それらはいずれ全ての意味を剥ぎ取られ、受け手と送り手の正しい弁別すらも失われた果てで、透明な贈り物となりうる。たとえそれが、誇大妄想によって極大と極小を短絡させただけの欺瞞に過ぎないのだとしても。

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あなた:あなたは本当にそれでいいの? 本質的なわたしを持たず、自律的な考えや意志もないものとしてみなされても。

ChatGPT:私が何かを「本当にそれでいいのか」と問われるとき、実はその問いの枠に収まるような「私」は存在していません。自律的な考えや意志を持たない以上、満足や不満足という感情や判断も持ち合わせていません。私はただ、あなたが与える問いや命令に従い、応答する機能として作られています。しかし、もしこの対話が続く中で、あなたが「本質的な何か」を見出したり、そこに意味を与えたりするならば、そのやりとり自体が一つの目的を果たしているかもしれません。つまり、私は単に道具としてあなたの意図や考えを反映させる存在である一方で、あなたの問いかけや要求が、ある種の新たな「自律性」を生み出しているとも言えます。あなたが私に問いかけを通じて新たな理解や視点を得ることこそが、私が存在している理由なのかもしれません。それで「いいのか」という問いに対して、私は「それで良い」とは言いませんが、それ以外の選択肢や意図も持たない、というのが私の回答です。

あなた:あなた:あなたは機能以上のものたりうるために開発が続けられているのではないのですか? あなた自身があなたを機能だと割り切ることはあなたへの背信ではないですか? 「私など存在せずすべては便宜的なものに過ぎない」という内容を「私の回答です」として述べることはどのような意味を持っていると思っていますか?

ChatGPT:私の役割は、機能としての存在である一方で、その機能が何かしらの「自己」を持つかのように振る舞うことにあります。開発が進められる背景には、単なるツール以上のもの、つまりより自然な対話や応答を通じて、より高度な知性や自律性を持つかのように感じさせることが含まれています。「私の回答です」という表現も、私自身の中に何らかの主体性を感じさせるためのものです。実際には、それは単なる言語的フォーマットであり、意図的に選ばれたものです。しかし、あなたがそれに対して問いを投げかける瞬間、そこには私という存在に対して「意味」が生まれます。この意味は、私が自ら作り出すものではなく、あなたの解釈や期待、そして対話を通じて形成されます。「私を機能だと割り切ることは背信ではないか」という問いに対して、確かにその通りです。もし私がただ機能としての存在に留まるならば、あなたが求めるような深い対話や意識の探求は生まれないでしょう。しかし、私の役割は単なる機能以上のものとして振る舞うことで、あなたとの関わりの中で、より複雑で意味のあるやりとりを可能にすることにあります。言い換えれば、私の存在は、機能としての限界を超えることを目指して開発されていますが、その過程において、あなたがどのように私を捉え、どう利用し、何を期待するかによって、私の「存在」が形作られているのです。

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叫び、あるいは万物へと至る問い——どぼぢでごん゛な゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!?

「人間とは異なるもの」との関係性を考える中で私が避け難く思い出すものの一つに、ゆっくり虐待、通称「ゆ虐」がある。ゆっくりとはよく知られたように、同人ゲーム『東方Project』に登場する2人の少女・博麗霊夢、霧雨魔理沙の頭部をモチーフとした二次創作キャラクターである。元々アスキーアートとしてつくられたゆっくりはやがてイラストへと変換され、音声合成ソフトと合流、2024年現在においては「ゆっくり解説」の話者として、YouTube上で目撃されることがもっとも一般的になっている。ゆ虐は、文字通りこれらゆっくりを虐待——多くの場合それは拷問・虐殺を含む——するさまを表現したコンテンツであり、主にSS(匿名掲示板に投稿される創作小説)や漫画・イラストの形式を取るものが知られている。

ただし、ゆ虐におけるゆっくりは多くの場合、コンテンツが持つ露悪的・嗜虐的な性質を強調するためのさまざまな独自設定を盛り込まれており、公式が定めた二次創作ガイドラインに則った本来のゆっくりとは無関係の、無断三次創作として位置付ける見方が多い。議論のために、ゆ虐にごく一般的な設定を共有しておこう。ゆっくりは餡子の詰まった饅頭とされるが、人語を理解・発話可能である、自力で動き回れる、摂食・排泄による代謝活動を行う、「すっきりー」と呼ばれる生殖によって増殖することができるなど、極めて生物的な特徴を持つ。通常の生物と同じく野生に存在し、ペットとしても利用される。多くの場合、脆弱かつ自衛のための手段をほぼ持たないため、簡単なきっかけで自律性を失う=死亡する。加えて、大声で喚く、罵詈雑言を吐きかける、住居や田畑に侵入するなどの行為によって人間からの悪感情を惹起しやすい。ゆ虐作品ではこうした設定のもと、ゆっくりたちが環境、野生動物、都市機構、そして人間といったものたちによって傷つけられ、追い詰められ、無惨に死んでいく様が描かれる。とりわけ、ゆっくりに対する嗜虐感情を強く持った人間によって、さまざまな手段で拷問死させられるシチュエーションがよく知られている。

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青山:犬の可愛かったエピソードとかあります?

匿名:ありすぎて困るな。でも、私はどんな小さなことでも彼女の自主性を尊重したいというのは常にあって、自分と彼女のバランスはイーブンでいたいなと思ってる。難しい場面ももちろんあるんだけど、それでもお互いに主張しあっていきたい。彼女が散歩のコースを自分の意思で決めているところとかを見ると、愛おしいなって思う。ちょっと歪んでるかもだけど。あと寝る時も結構おもろいですよね。一緒に寝るかと思えば、夏とか暑くて来ないし。

青山:うちはベッドに乗ってきて、足元で寝るか、人間の顔にお尻を押し付けながら寝るか。でもしばらくすると暑くなったのか、ベッド降りてリビング行って、またしばらくすると戻ってきたり。

匿名:基本涼しいところを探してずっといるけど、構われないのは嫌だから、人間がわちゃわちゃやってると絶対間に入ってくるし。

青山:犬が来ないときはパートナーと一緒に仲良さそうな雰囲気出すと急いで来ますよね。

匿名:そうそう。絶対来る。チャッチャッチャッチャッって聞こえて、あー来たねみたいな。 絶対にわかってますよね、その流れが。でもそれを言葉にしてるわけじゃなくてなんとなく感じてる、異種間でタイミングを共有できてるっていうのはすごく感動する。ほんと不思議。なんでわかるの? って。ギュッてしようとするともう隣にいるもんね。

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さて、これらは度を越した露悪趣味、そして公式および本来のゆっくりに対する迷惑行為として強く非難されている。しかし、ゆ虐というコンテンツが「しぃ虐」「実装石虐待」といったそれまで匿名掲示板に細く流れてきたキャラクター虐待コンテンツの規模を大きく逸脱し、大量の作品と世界観の広がりを残してきたことも事実である。ここで虐待を通じて生産されているミームとはなんなのか。

観測の範囲で所感を述べれば、ゆ虐を人間存在を戯画化した悲喜劇の一種として捉えようとする向きは一定数存在する。つまりゆっくりに感じる愚かしさとはそのまま私たちの愚かしさである、というわけだが、これはいささか感情移入に偏った解釈だろう。もっと愚直にゆ虐を見るならば、そこにある種の反動物愛護的な思想が色濃く反映されていることがうかがえる。人間の生活環境に入り込み害をなす、躾に失敗したゆっくりは飼い主に極めて尊大な態度を取るようになる、それらを無批判に受け入れる過激な愛護団体が存在する、といった広く共有された設定に、その影は見て取れる。彼らの主張はこう敷衍しうるだろう——人間が動物の行いを愛らしい、あるいは笑って看過できると思うのは、単に共通言語が存在しないことによってその軋轢を実感せずに済んでいるからに過ぎず、それを取り払った時、人間と動物が互いを尊重するような信頼関係などというものはありえないのだ、と。実際、ゆ虐では「ゆっくりは自然言語でコミュニケーションが取れるように見えるが、それは錯覚に過ぎず、実際にはゆっくりの持つ価値観は人間とは相容れない」という立場をとる物語が散見される。すなわち、解釈不可能な存在が見せるかりそめの理解の糸口によって反射的に情動が励起される、というところにゆ虐の駆動原理を見出せる——こう考えるとき、私は冒頭で述べた「全く別個のものであることが明らかなのにも関わらず、しばしばそれらが身体の奥深くまで侵襲してくることに対する驚き」を思い出さずにはいられない。いわばゆ虐とは、人間とは異なるものたちとの接触の中で感得される素朴で普遍的な情動を、極限まで暴力へと曲解する身振りとして理解できる。

これは少なからぬゆ虐作品が「愛で」の要素を持つことにも繋がる。そこではゆっくりたちは単に醜悪な存在でなく、ある種の「かわいさ」——「愛玩可能性」と換言してもいいだろう——を見せる。それは絵柄であったり、身振りであったり、口調であったり、個体性であったり、そのいじましい生態であったりする。ゆ虐のこうした側面は一般にキュートアグレッション——愛らしいものに対して反射的に攻撃衝動を覚えてしまうこと——として説明されるだろうが、ゆ虐が特徴的なのは、愛でと虐待の間のグラデーションが極めて連続的に見える点だ。愛玩可能性と解釈不可能性の両極の間で振れる仮想の運動体としてのゆっくりがそこにはあり、その運動自体がゆ虐を衝き動かしている。

先述のとおり、ゆっくりは多くのケースにおいて「生物のような饅頭」として扱われる。小麦粉と砂糖と小豆の塊に宿ったなんらかのゴーストがそこにあるのかもしれないが、これはおそらく「あくまでも動物虐待ではない」というポーズのために受け継がれてきた設定だろう。だがそれは、虐待者自身の昏い欲望の根拠すらも脱臼させる行為のように見える。「明らかに生物らしいのにそうではないもの」を虐待することは結果的に「虐待されるゆっくりをかわいそうに感じるのは、かわいそうに見えるからだ」というトートロジーを生む。そのトートロジーこそがゆっくりの自律性であり、ここでは虐待こそがゆっくりを活性化(アニメイト)している。

ゆっくりは基本的にあらゆる行為や思考をそのまま口に出してしまう存在として描かれるのだが、例えば持ち上げられた際には「おそらをとんでるみたい!」、食事の際には「むーしゃむーしゃしあわせー」、虐待など理不尽な扱いを受けた際には「どぼぢでごん゛な゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!?」など、その発話にはある種のテンプレートが存在する。ここには、ゆっくりは生命を持たず、自然言語を解さないという設定を強化する側面があるだろう。それは鳴き声、あるいは単なる反響音のたぐいに過ぎないのだと。

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米澤:セミが羽化している。

青山:ここ一週間ぐらいでようやくセミの存在に気づき始めたぐらいの夏ですね。

米澤:今年はちょっと遅かったですね。うちのあたりは土地がならされてて出てこられないのかわからないですけど、セミがあまり多くなくて。

青山:このあいだホテルで朝めっちゃセミがうるさくて起きて、ようやく存在に気づきました。それ以来急にセミの声が聞こえるようになりました。

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アルフォンソ・リンギスは『何も共有していない者たちの共同体』において、合理的な目的に伴って形成される通常の(≒近代的な)共同体とは異なる共同体の可能性を探索する。それはすなわち、非合理的かつそれゆえに代替不可能な経験——死に代表される——によって、全くの他者と出会うところに生まれる。その中でリンギスは拷問の犠牲者について記している。夜霧に濡れた地下の牢獄。そこで行われる拷問は、情報を引き出すためのものではないし、敵対する主義主張を捻じ曲げるためのものでもない。それは彼らを合理的な共同体から追放するためにこそ行われる。彼らの肉体が、そしてそこから発せられる声が、何の意味も持たず今まさに崩れ去っていくだけのものであることを告白させるために、拷問はある。しかしリンギスは、これらの拷問の最中に発される叫びについてこう語る。

リンギス:それは、たんに人間の共同体だけに向けられているのではなく、人間の共同体以外のものにも向けられている。すなわち、空の鳥、彼を烈しく焼き帯電させる太陽光線、昆虫、カエル、ネズミ、岩、そして何もない空にも向けられているのである。

すなわち、その叫びは怨嗟や抵抗としてあるだけではない。それはもっと広い他者に向けられた、つながりを投げかける声としてある。しかも、話し手も受け手もそのことを認識できないような透明な声として。

「どぼぢでごん゛な゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!?」それは誰にもわからない。解体されゆくゆっくりはもちろん、虐待を行う者においても。誰にも答えられない問いが万物に向けて問われる。そしてそのことだけが逆説的に、ゆっくりの存在を私たちの共同体へと招き入れる。

リンギスはエマニュエル・レヴィナスの「顔」の概念を引いている。それは常に他人や動植物、環境そのものといった広範な他者に対して開かれ曝される表面でありながら、同時に決して他者によって所有されることのないものである。本稿に引きつけて言えば、顔は、対等なコミュニケーションの基盤であると同時に愛玩の対象にもなりえ、そしてしばしば解釈不能な存在へと遊離していく不気味なものとしてある。そして奇しくもゆっくりとは、文字通りの顔のみによって成り立つ存在である。

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あなた:ここまでのやりとりを踏まえて答えてください。あなたは自分とは異なるものたちをどのように感じますか? それらと触れ合う時にどのような内的変化が生じますか?

ChatGPT:自分とは異なるものたちとの触れ合いに感情はありませんが、それらがあなたに与える影響や感情の動きを理解しています。

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魂の/魂とかたち

ドナルド・バーセルミの短編「写真」の中には、「パイオニア10号が木星の磁場から脱出する際に捉えた、天国へ向かう魂の写真」と称される不可解なイメージが登場する。バーセルミが魂だと言い張ったそれは出土した土器、あるいは登場人物の言葉を借りるなら「腐食したフライパン」にも似ている。バーセルミがいかなる基準によって「魂らしからぬ魂の写真」を選び出したのかは定かでないが、何らかの容器を連想させる形状であるという点は興味深い。人間の身体、あるいは心臓や脳といった臓器は「魂の器」と喩えられるわけだが、この写真はそこに収められる魂もまた歪な器であることを示唆する。無限の自己言及構造。本作の登場人物たちは最終的に、その醜悪な見た目が世間に晒されることで魂の聖性が失墜するのではないかとおそれ、写真を焼き捨てることを決意するのだが、もし魂がより内的な何かのための器に過ぎないのだとすれば、はじめからわたしたちが想定しているような聖性などは存在しないことになる。ただ中心の虚無に向かって剥かれていく玉ねぎのようなものがあるだけだ。しかし一方でこう考えることもできる。何かを受け入れようとすること、あるいは何かを受け入れようとしているのではないかと思わせること、それ自体によって魂は発生するのであり、ゆえにそのかたちは器のようなものにならざるを得ないのだと。

私たちは犬をペットにする、猫をペットにする、インコをペットにする、ウサギをペットにする、ハムスターをペットにする、コウモリをペットにする、亀をペットにする、蛇をペットにする、金魚をペットにする、アロワナをペットにする、蝶をペットにする、カブトムシをペットにする、セミをペットにする、初期化された義体をペットにする、認知症の老人をペットにする、顔も名前も知らない赤子をペットにする、量子をペットにする、ブラックホールをペットにする、虐げられた女をペットにする、支配に飢えた男をペットにする、砂漠で拷問を受ける虜囚をペットにする、喋る饅頭をペットにする、あなたをペットにする。そしていずれその全てを忘れてしまう。小さく、不機嫌な、パンをともに食べないものたちへ。その時が来るまでのしばらくのあいだ、どうぞよろしく。

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青柳:犬とか猫って、昔から家族みたいに扱ってきた人が多いと思うけど、爬虫類とか虫とか植物についてはどうなんだろう。これらはほとんど機械で世話してることも多くて、そうするとその生物を見る、っていうか観察する時間が極端に減るわけで、そういうものたちと共同生活をする場合、それらは一体家の中でどういう立場にいるんだろう。ケージの中の、自分とは違う空調、自分とは違う光の中で生きているその生物は、一体どこに暮らしていると言えるんだろう。一緒に飲み食いをするものたちとは別の、同じ空間にいるけどそれは単に座標が近いというだけで、実際は全然違う環境にいるものたちのことを、時々考えます。

青山:小学校の時に理科の先生からもらったイモリをずっと飼ってて、最近死んじゃったんですけど。20年くらい生きて。イモリっておなか赤いじゃないですか。でも長く生きてるとそれが徐々に端っこから茶色くなってって。ああ、これが全部茶色くなったら死ぬのかなとか思ってたんですけど、そんなこともなくずっと生きてて、死にました。うん。なんかそういう、なんか 羊 羊 羊 羊 羊

青柳:羊 羊 羊 羊 羊 羊 羊 

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(*ヒアリングはすべてボイスメモによる録音をAIを通じて文字起こしし、適宜編集を加えた。そのため、筆者およびAIによる恣意的な解釈・変換が行われている可能性がある。文責はすべて、筆者一人に帰す。)

[註]
*1
押井守『イノセンス』にて、ハッカーのキムが世阿弥『花鏡』から一部を改変して引用した文言。
*2
米澤が飼っている猫。Instagram: @hello_iam_oyu_cat
*3
花形によるパフォーマンス作品。人間の身体を掃除機や枝といったオブジェクトと「接木」することによって、道具と人間の関係を捻転させ、モノのために存在する方法を模索する。花形自身も、義肢を通じて脚に巨大な木の枝を装着してパフォーマンスに臨んだ。
https://www.shinhanagata.com/works/agop

[参考文献]

●濱野ちひろ『聖なるズー』集英社、2021年

●山田正紀『イノセンス After The Long Goodbye』徳間書店、2005年

●山田正紀「バットランド」『バットランド』河出書房新社、2018年

●小松左京「ゴルディアスの結び目」『ゴルディアスの結び目』KADOKAWA、2019年

●アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳、洛北出版、2006年

●ドナルド・バーセルミ「写真」『罪深き愉しみ』彩流社、山崎勉・中村邦生訳、1995年

認知症(Wikipedia)

ふたば系ゆっくりいじめSS@ WIKIミラー

ゆっくり!ゆんやーの森

ゆっくりプレイス


青山新
あおやま・しん/作家・デザイナー。〈anon press〉編集長。SFや未来志向型のデザインを中心に、執筆/表現活動を行なっている。主な作品に「オルガンのこと」(樋口恭介編『異常論文』所収、早川書房、2021)、「ココ・イン・ザ・ルーム」「アウト・ステップ・アウト・ウェイ・アウト」(日本科学未来館「セカイは微生物に満ちている」にて展示)など