© 士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊2045製作委員会
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KODANSHA

2024.10.28COLUMN
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ISSUE #04藤野陽平

Gods, Ghosts & Ancestors in the Shell

文&図版提供_藤野陽平[Yohei Fujino]
コラージュ_太田知也[Tomoya Ohta]

もとより「ゴースト」とは《攻殻機動隊》における最重要概念にして千古不滅の神秘である。作中でその定義が示されることはないばかりか、士郎原作にしろ、押井版にしろ、神山版にしろ、その解釈はまったくもって一様ではない。ゆえに、これまで様々な研究者や批評家たちがあの手この手でゴーストに挑んできた。意識、魂、心、本能、霊……おおよそそれらしい言葉を当てていくら考えてみたところで、並の人間であれば10分もすれば根をあげるだろう。《攻殻》は「ゴーストとは何か」をめぐる物語だ。ゴーストこそが《攻殻》を《攻殻》たらしめている。

そうして、また一人ゴーストの門を叩く者がいる。台湾の信仰実践に関するフィールドワークを専門とする、宗教人類学者の藤野陽平である。台湾の主要な宗教信仰といえば道教と仏教を思い浮かべるが、しかし厳密には、これら二大宗教を含む多様な宗教が複雑に混在した民間信仰がその大部分を占めていることはあまり知られていない。道教廟の中に観音菩薩が祀られていることもあれば、コテコテの中華建築様式をしたキリスト教会に遭遇して面食らったことがある人もいるかもしれない。

はたして藤野は、この地の柔軟で、寛容で、流動的な宗教観念を具に紹介しながらゴーストに躙り寄る。複雑な台湾社会の歴史と、人々の営みと、それを支える信仰のダイナミズムの中に朧朧たるゴーストの鏡像を見る。

何も「またゴーストか……」と嘆息する必要はない。次の台湾旅行の計画を立てているなら、せめてお隣の信仰くらいは知っておいて損はないだろう。

目次

メカ関帝のゴーストはどこにあるのか

台湾の中部、台中駅から徒歩5分ほどのところにある小さな廟に、まるでガンダムのような機甲関帝(ジージァグアンディ)が現れ話題となった。
台湾では「遶境」(ラオジン)と呼ばれる祭りの練り歩きの際などに、神々を載せた神輿の他に、「芸陣」という各種の趣向を凝らした芸能が登場する。日本人にとって獅子舞や龍舞などは想像しやすいかもしれないが、厳しい姿をした男たちの集団「八家将」(バージァジァン)や、「伝統的」な武術グループ「宋江陣」(ソンジァンジェン)などに加え、ソーラン節に合わせて踊る「素蘭小姐陣」、K-POPを流しながらトラックの上でポールダンスをする「鋼管辣妹」、大音量のダンスミュージックに合わせて「哪吒」が踊る「電音三太子」(ディエンインサンタイズ)など、2000年代以降に新しく定着した様式もあり、見ていて飽きることがない。
『イノセンス』でバトーとトグサがキムを探しにいく際に中華風の祭りのシーンが挿入されるが、この時に登場する異形の神々の巨大な人形は「神将」(シェンジァン)と呼ばれるもので、その次に登場する少し可愛げのある少年風の人形は「三太子」である。このような芸能のひとつとして新しく生み出されたのが、冒頭の「メカ関帝」というわけだ。
メカ関帝は神将や三太子と同じように、中に人が入って動かすことができるようになっている。お祭りや廟の行事の際には、メカ趙雲やメカ孫悟空とともにパフォーマンスを行うのだそうだ。

《攻殻機動隊》では、心と体が電脳と義体とに分離され、交換可能になっている。『攻殻機動隊 ARISE』で草薙素子は母親の胎内にいる胎児の時に完全義体になったとされているが、たとえ自身のボディをもたなくても電脳さえあればそれが成長することで義体を扱うことでき、超人的な行動が可能になる。あるいは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のラストシーンで、バトーが草薙素子の電脳だけ持ち去り、新しい義体にそれを入れても草薙素子であるように、《攻殻機動隊》の世界におけるヒトの主体は義体ではなく、電脳のほうにあるように描かれている。
しかし、この作品世界での心と体の描かれ方は、電脳が唯一の主体というわけでもなさそうだ。電脳の記憶が改変されたり、何ものかの指示で義体が動かされたりすることもあり、単に電脳が常に義体に指令を出すということではない。電脳はゴーストと同義、義体はシェルと同義ではなく、ゴーストとシェルの関係は電脳と義体の関係とパラレルであって、同じものではない。

《攻殻機動隊》の身体観から、メカ関帝はどのように見えるだろうか。メカ関帝の場合、中に人が入ることで動くことができるのだが、その主体性は中の人ではなく、シェルにあたるメカ関帝のほうにある。中に人が入って操作していても、その人が何者なのかということは問題にならない。それは仮面や着ぐるみと、「中の人」との関係に対応する。誰がウルトラマンの仮面をつけてもそれはウルトラマンであり、誰が入っていようともクマモンの着ぐるみが動いていれば、それはクマモンなのと同じことである。中の人が入れ替わってもシェルの本性が失われたり、変化したりはしない。
複雑なのは、メカ関帝の場合には関帝というゴーストがメカというシェルを纏っている、という点である。中の人にとっては自分がゴーストであり、メカ関帝がシェルであるところ、しかしメカ関帝にとってみれば関帝こそがゴーストであり、メカがシェルでありながら、さらに関帝の中にもうひとつ「中の人のゴースト」が存在することになる。メカ関帝からは立場や見方によって構造が異なる関係論的かつ重層的なゴースト/シェルの関係を見出すことができ、《攻殻機動隊》の身体観に通じるものがある。ひとつの身体の上に複数の個性が共存するコスプレイヤーとキャラクターの関係は、それに近いものがあるのかもしれない。

それで、ここでは私がこれまで研究対象としてきた台湾の宗教における他界観と身体観を見直すことで、ゴースト/シェル、電脳/義体といった複雑な攻殻機動隊的身体観を考える糸口を提供したい。

台湾の他界観

台湾の宗教研究をしている人が「ゴースト」という単語を耳にすると、God、Ghost、Ancestorという用語が頭に浮かぶ。アメリカの人類学者、David・K・Jordanらが台湾の民間信仰の世界に見られる他界観を説明したもので、日本では渡邉欣雄や三尾裕子らを中心に活発な議論がおこなわれてきた。本稿では、《攻殻機動隊》で用いられる「ゴースト」との混同を避けるため、台湾の他界観におけるGod、Ghost、Ancestorについては、そのままローマ字での表記とする。

God、「神」(シェン)もしくは「神明」(シェンミン)とは、文字通り神のことを指す。Ancestor、「祖先」(ズーシェン)とは祖先のことで、その人の血縁のある先祖の霊であり、日本語の語感に通じるものがある。しかし、Ghost「鬼」(グェイ)については少し説明が必要である。神は人々に平安を与える存在で、祀らなくてもとくに何も起こらないが、祀ればプラスの力を与えてくれる。鬼とはその逆で、祀っても御利益があるわけでもないが、祀らないと祟りをなす存在である。祖先とはその中間のような機能があり、祀れば御利益が、祀らないと祟りがあると考えられている(渡邊1991:28−31等)。

それで「鬼」であるが、日本語で「オニ」というと、金棒を手にして牛のような角が生え、虎の毛皮のパンツを履いている筋肉隆々で赤や青の色をした怪物がイメージされると思うが、台湾の民間信仰の世界で鬼というと、日本語の亡霊や幽霊に近いものである。写真は南部・台南市の麻豆にある代天府にて撮影したものである。日本語のオニは背後に立っている恐ろしい見た目の男たちが当たるだろうが、台湾の鬼とは手前で責苦に遭っているものが、それにあたる。
台湾の鬼は正しく祀らなければ祟りをなす存在で、最悪の場合、とり殺されることもあるとされ、人々からとても恐れられている。前提として人は死ねばみな鬼になるのだが、天寿をまっとうし、風水の良い墓地に埋葬され、男系の子孫から正しく祀られていれば、祖先になることができ子孫に福をもたらすとされる。しかし、これらの条件が満たされなければ鬼は鬼の状態にとどまってしまう。鬼は自分で必要なものを得ることができないので、この世から供物として食べ物やお金などを捧げてもらわないと困窮し、祀ってもらえるように祟りをなすのだ。

Ghost(鬼)からGod(神)へ

この神(明)・祖先・鬼という3つのカテゴリーは固定的なものではなく、様々な要因によってカテゴリー間を移動しうるダイナミックな存在である。例えば、祖先とは日本語の感覚であれば、家系の先代の人物という限定的な意味に捉えられるが、台湾の場合は、家系の先代の人物であってなおかつ、かなり込み入った条件を満たしていなければ鬼になってしまう。渡邊(1991:149−150)は、祖先であり続けるために以下の条件を挙げている。

1. 死者であること、しかし単に死んでいればいいのではなく、
2. 夭折していない、
3. 未婚ではない、
4. 横死しない、
5. 生前の行いが善く、楊寿をまっとうした

これら「死に方」に関する条件があり、さらに一定条件の子孫をもつ必要がある。その子孫とは、

6. 親族関係をもつもので、
7. 自分と同じ宗族に属し、異姓のものではいけない、
8. 男子であり、
9. 加えて夫方に婚入し婦の地位を得た女子の子孫も必要である

さらに、祖先になったあとも、

10. 名を持ち位牌と墳墓に記憶され続けなくてはならず、
11. 子孫から定期的に祀られ続けなくてはならない

死者はこれら条件を満たすことで、祖先として浄土にて安定した暮らしを送ることができ、子孫に良い影響を与える。しかし、条件が揃わなければ鬼となり地獄で苦しい生活を送り、その恨みから人間に祟りをなしてくる存在となる。さらに、ある条件が加わりさえすれば特定の宗族の祖先ではなく、社会全体に福をなす神明になることもあり、ゆえにこの3つのカテゴリーは乗り越えられうるものとなるのである(渡邊pp.140−141)。

繰り返すが、このように人は死ねば、まず鬼になる。とくに戦死や事故死、自殺など、血を流し天寿をまっとうできなかった鬼は強い恨みを残し、人々を祟ってくる。しかし、鬼が祖先になったり、祖先が鬼になったりするのと同様に、鬼も祟りを避けるため祀られているうちに、福をなす神明となることがあるのだ。
例えば、鬼から神へと変化した代表的な存在として「王爺」(ワンイェ)という神がいる。この王爺には複数の起源が存在し、瘟神であったというもの、鄭成功であるというもの、その両方で瘟神であり鄭成功であるというものに加えて、人鬼から変化した神である、というものも存在するという。三尾の指摘では人々は王爺のみならず「有応公」(ヨウインコン)や「大衆爺」(ダチョンイエ)のように、鬼が起源であっても神のように祀られることもあれば、神でも人に害を成したり、霊験がなければ放置さたりするようなこともあり、こうした鬼由来の神はマイナスにもプラスにも、力を働かせることができると考えられている(三尾1990a)。

異常死したり祀られずに放置されたりしている鬼は、人からの供養を受けることで、人はそのマイナスの力を抑え、プラスの力を引き出すことができる。例えば、現地で墜落死した日本人の戦闘機のパイロットを祀る「帥軍廟」(シュアイジュンミャオ)という小さな廟を訪問した際に、利用していたタクシーの運転手はこの廟に着くとまず自らお参りを始めた。彼が言うには、こういう廟に来た時には、まず「拝拝」(パイパイ、お参り)する。そうしないと病気になったり、事故にあったり、悪いことが起きるかもしれない。台湾人にとって「不吉利」(不吉)で、とても怖い場所というわけだ。ただし「拝拝」すれば、そういう恐れはなくなるのだという。そう言って、彼がおこなった「拝拝」とは簡単なもので、線香に火をつけ、香炉に捧げ、賽銭を少額入れる程度のことだ。
日本統治期に火葬場として使われていた建物を廟とし、遺骨が入ったままの骨壷も祀られている「霊聖堂」(リンシェンタン)はその顕著な例だろう。以前に火葬場があった当地は、近寄りたくない不浄な場所とされており、夜な夜な軍隊が訓練する軍靴の音が聞こえるという、不吉な出来事もあったと言われている。しかし、この廟を管理する陳氏が700から1000卓を並べる「普度」と呼ばれる施餓鬼を大々的におこなったことで、鬼から神へと変化させた(三尾2017)。私がおこなったインタビューでは、陳氏は毎晩、この廟の神が祀られている壇の下で寝ているという。こう言ったら失礼かもしれないが、かなり薄気味悪い場所である。私は陳氏に、率直に「怖くないのか?」と尋ねたところ、「以前は悪さをしたが、千卓の供養をおこない神になったのだから、もう私に悪いことをすることはない。だから、怖くはない」と話した。

こうした世界観は、キョンシーを例に考えるとイメージしやすいかもしれない。一連の《キョンシー》映画では、キョンシーとなった死体は正しく処理されることで、さながら神のように自分たちを助けてくれる味方になるが、その方法を間違うと人を殺そうと襲い掛かってくる恐ろしい存在になる。この処理とは供養のことであり、死者の願いに耳を傾け、懇ろに弔うことで、死者が神のようにも鬼のようにも変化するということを示している。

陰神と正神

このように台湾では一口に「God」と言っても、鬼から神になったようなGodは、やや不気味な存在であると捉えられている。そうした神は「陰神」と呼ばれ、「正神」と呼ばれる神とは異なると考えられている。その神が祀られているのも陰の廟であるか、陽の廟かという分類がある。

佐々木(1990)によれば、陰の廟は死後の世界を扱い、陽の廟は現世の出来事を扱うという。陰の廟の事例として紹介された「東嶽殿」は冥界を支配する東嶽大帝を祀り、冥界において迷い苦しんでいる死者を浮かばせる「死人超度」の廟とされている。一方、陽の廟の事例である「玉皇宮」は天上にあって宇宙を支配するとされる玉皇大帝を祀り、現世において災厄・不運に悩む生者の運を改める「活人補運」の廟とされているという。
両者は明確に別のものであると認識されており、陽の廟で死者供養の儀礼が行われることはないし、おめでたい春節に、一年の平安を祈りに陰の廟に行くことはまずあり得ない。陽の廟には台湾で広く信仰を集める媽祖や、三国志の関羽として知られる関帝といった神々を祀る廟が該当するのに対して、陰の廟には東嶽大帝や城隍といった冥界を司る神々を祀る廟が該当する。さらに「萬善堂」(ワンシャンタン)のような陰神を祀っている施設も陰の廟に含まれる。萬善堂と同じようなものとして、有応公廟、「万応公廟」(ワンインコンミャオ)、大衆廟、「百姓公廟」(バイシンコンミャオ)や、水死者を祀る「水流公廟」(シュイリュウコンミャオ)、そのほかにも「将軍廟」(ジャンジュンミャオ)、「姑娘廟」(グーニャンミャオ)などがあり、いずれも陰の廟と認識されている。

鬼が神へと変化したように、陰神も徳をなし、信者を集め地域で認められれば正神になることもある。さらに霊験あらたかと評判になると信者が押し寄せ、王爺をまつる台南市「南鯤鯓代天府」のように、台湾を代表する巨大な廟へと成長していった事例も存在する。
七人の墜落した日本人パイロットを祀る七元帥廟という廟も、以前は陰廟だったのだが、新型コロナウイルスの感染がひと段落した折に再び訪問したところ、神が七元帥から東京大元帥と名前を変え、廟も小綺麗にリフォームされていた。以前は不用意に近づくと祟られないかねない不吉な場所であったが、今では地域の人が気軽に立ち寄り、お茶を飲みながら談笑する憩いの場へと変化したようだ。これは神の位が上昇し、地域を保護する神になったと認識されたということで、すでに鬼のような祟る神ではなくなったことと理解できる。

神の位は様々なモノによっても表現される。例えば、陰神になったばかりの神であれば、近くにその名が書かれた札が掲げられているだけだが、やがて位牌のようなものへと変わり、正神になれば最終的に神の像がつくられる。祀られている廟も、当初は三方に壁があるだけの「三面壁」(サンミエンビ)と呼ばれる簡素な造りだったものが、徐々に巨大化し、装飾も豪華で立派な廟へと変貌を遂げてゆく。こうして最初は人々を祟るかもしれない薄気味悪い陰神であっても、徐々に民を守る正神として認められていくという過程が見てとれる。漢民族を代表する神と言っても過言ではない関帝も、はじめは戦死した将軍であり、祟りをもたらす存在であったが、少しずつその位を上げ、今日の地位を確立している。このように台湾のGhostやGodたちは、じつにダイナミックな存在である。

Ghost(鬼)とGod(神)は、どのように囁くのか

ここまで見てきた台湾の他界観──Ghost(鬼)、God(神)、そして人々とのやりとりからトレースすると、草薙素子がしばしば口にする「そう囁くのよ、私のゴーストが」というセリフはどのように捉えられるだろうか。単に「そんな予感がする」という曖昧なもののようには思えない。作中において「ゴーストの囁き」が外れてしまうことはなく、何か預言者が口にするような、論理的・科学的根拠はないが、それでいて実現可能性が高そうな言葉として扱われているからだ。
さらに言えば、このセリフは自らの思考を通じて捻り出されるものではなく、囁いてくるような存在としてのゴーストは自らの中にたしかに内在していながら、しかしそれでいて自らの外部から影響を与えてくる存在として描かれているようにも想像される。メカ関帝にとっての中の人のように、主体とは別でありながら、しかし全体としてのメカ関帝を駆動していく存在として、ゴーストがあるのだろう。

台湾のGhost(鬼)やGod(神)たちは、様々なかたちをとって私たちに囁いてくる。最も身近な例として挙げられるのは、「籤」と「杯珓」(ポアポエ)であろう。台湾では大抵の廟で籤が用意されている。籤をひくには、まず廟内の神々に香を捧げ、自分の姓名と生年月日、生まれた時間、現住所、そして相談ごとなどを伝える必要がある。そして神の許しが得られれば籤をひくことができ、その籤で“間違いないか”を確認する。この正否を知らせるのが、杯珓という道具である。竹や木で三日月型につくられた杯珓には表と裏があり、二つで対になり、地面に軽く放って使う。それぞれが表裏になれば「聖杯」(シェンベイ)と呼ばれ、神から許可が降りたということを意味する。しかし両方とも表の場合は「笑杯」(シャオベイ)、両方とも裏の場合は「怒杯」(ヌゥベイ)とされ、聖杯が出るまでやり直さなければならない。
その他にも「手轎」(ショウジャオ)というものもある。これは子ども用の椅子のような形状をしたもので、二人組になってそれぞれ椅子の脚を持つと、そこへ神が座り、いわゆるコックリさんのように椅子が勝手に動き出すというものである。脚が動くことで文字が書かれ、人々はそこに神意を読むことができる。

このように、神の囁きを聞く代表格に「童乩」と呼ばれるシャーマンの存在が挙げられる。童乩は自らの身体に神を招き入れ、憑依することで意識を失い、人相が変わり、立ち振る舞いも別人のようになる。神の力を誇示するために自らの体を傷つけて大量の血を流してみたり、火のついた線香を身体に押し付けたりする。そして人々は、日々生じる悩みごとを、童乩に憑依した神に相談するのだ。
台南市で童乩の問神の調査を行った佐々木(1988)によれば、1985年に台南市の「上玄壇」の童乩に寄せられた10件の依頼のうち、教育問題が3件、健康問題が4件、交通事故が3件であり、保安宮の場合は健康問題4件、教育問題2件、建築と神棚に関する問題がそれぞれ1件であった。また、1979年に台南市で実施した調査では13件中、健康問題が9件、建築問題3件、運勢1件で、その廟では3回の問神で計23件の依頼があり、健康問題が16件、事業に関するものが4件、建築問題2件、運勢が1件であったと報告されている。こう見てみると、概ね他地域の問神傾向と大差はなく、今から35年前の論文ではあるが、その祈りの内容も現在と比較して大きく変わっているわけではない。

この時、神や鬼と、童乩や籤などとの関係は、《攻殻機動隊》におけるゴーストとシェルの関係にあたるように思われる。童乩は自らの身体を神や鬼に明け渡し、自らのゴーストではなく、神や鬼のゴーストを優先する。草薙素子は自らのゴーストの囁きを元に行動していたが、童乩の信者たちは、童乩に憑依する神の「ゴーストの囁き」を元に行動を決めている。信者一人ひとりにも、童乩本人にもゴーストがいると考えられるが、ここでは「童乩というシェル」に入った神のゴーストに基づいて行動しているというわけだ。自他を明確に切り分けて、ひとつの身体にひとつの精神があることを正常とする近代的二元論的身体観を超えて、自己を形成しつつ他者でもあり、自己と他者をつなぐものとしてのゴーストと、その受け皿としてのシェルというものが見えてこないだろうか。

宝くじの当選番号を囁くのは誰か

では、台湾のGhost(鬼)とGod(神)の中間に位置するとされる陰神には、人々は何を祈っているのだろうか。陰神の代表格は有応公と呼ばれるものであるが、文字通り「求めが有れば応じてくれる」神であり、どのような相談にも乗ってくれる万能神である。しかし、実際に家族の平安や健康といった一般的なお願いは、媽祖や関帝といった位の高い正神にすることが多く、ややいかがわしい存在と見られている陰神に何を聞くのかといえば、じつは宝くじの当選番号を聞くことが多い。正神はギャンブルの手助けはしてくれないと信じられており、そこで人々は何でも願いを聞いてくれる有応公に頼むのというわけである。
例えば、南部・屏東市の枋寮にある龍安寺の先鋒祠には、樋口勝見という旧日本軍人が祀られている。この先鋒祠を管理する龍安寺の関係者によれば、この寺院に参拝する大多数の人にとっては、主神である観音菩薩こそが重要なのであって、日本神である先鋒祠に参拝する人はごく少数であるという。熱心にお参りするのは地域外の人々で、こっそりやって来ては、宝くじの当選番号を聞いて帰っていくのだそうだ。

こうした宝くじの当選番号を聞くという宗教実践について、三尾(1995)によれば、宝くじの番号を聞くための託宣は、「童乩と呼ばれるシャーマンに『神』がとりついて口頭で託宣するか、紙銭に筆で、また砂を撒いた机の上に手で数字や絵のようなものを書いて、番号を示唆する。ただし、数字をはっきりとしゃべったり書くということは少なく、示された指示から信者がある程度推測を加えて自分で最終的に番号を決める方式が多い」という。私のフィールドワークの経験では、その他にも線香から落ちた灰の形が数字に見えると、その数が陰神の思し召しだと解釈するようなこともあるようだ。

曽は有応公の信仰について細かく紹介しているが(1939:87-118)、その中で、この神には現実的な願いごとが寄せられ「眼前の欲望を満足せんが為のもの」(p .108)であると指摘し、そうした現世利益的な願いについて、疾病に関する祈願、六畜興旺(馬、牛、羊、鶏、犬、豚の飼育がうまくいく)、商売繁盛、賭博の神、子孫繁栄、有応必応(求めればどんな願いも叶えてくれる)の6つに分類し紹介している。この中の「賭博の神」というのが、その他の願いと比べて独特である。曽は以下のように述べる。

有応公は賭博の神であり、無職無頼の守り本尊である。之は有応公崇拝に現れたる最も顕著なる事実である。蓋し博徒が有応公の信者となり、有応公が特に博徒に崇拝されることは、過去に於て多くの場合、賭博は辺鄙なる処に建てられたる有応公廟又は其の付近に於て開帳されたることより起こったものの様にも思われるが、一は有応公が下級の神であったことにも原因しているようである。有応公にすれば有難迷惑であるが、博徒の心理として勝負に対する不安からして神に祈らずには居られない。其の対象たるや有応公に限ったことはないが、場所柄又は境遇からして有応公が博徒と不離の関係を結ぶようになったものも決して偶然ではない。されば台湾に於ける博徒の習俗濃厚なることと有応公信仰の殷盛なることとは、そこに密接なる因果関係あることとを見過ごしてはならない。(曽1939:111、旧字体、旧仮名遣いは改めた)

台湾民俗宗教の冥界について研究する林富士(1995:222)によれば、1980年代後半に台湾で「大家楽」(ダージァラー、ロトのような数字を自分で選ぶ形式の宝くじで、民間で違法におこなわれることが多かった)が流行した時期に、この傾向はより明確になったのだという。博徒は有応公と身分が比較的近いと認識しているので、このような正式でも合法的でもない願いごとを比較的相談しやすいという。
宝くじの当選番号を鬼に尋ねるというおこないは、やはり《キョンシー》シリーズの映画『幽幻道士2』(原題『哈囉殭屍』)にも描かれている。前作でキョンシーに噛まれて死んでしまった署長の弟が登場するのだが(同一人物が演じている)、キョンシーとなった兄が火葬される前に、宝くじの当選番号を聞こうとするシーンが描かれる。当時の台湾において、鬼あるいは神のような存在に宝くじの当選番号を聞くという信仰実践が広く見られたことの裏付けとも言えるだろう。

林茂賢(1999:173−174)も、やはり「大家楽」が大流行した80年代後半に、神への相談が幅広く行われたことを伝えている。賭博は媽祖や観音、キリスト教で言えばイエスと言った「正神」には相応しくないため、宝くじの番号を聞くといった相談は大衆爺、有応公と言った孤魂野鬼(グーフンイェグェィ)や陰神、普段は人があまり訪れない墓や神壇、奇石や大樹に相談するという人々の実践について紹介している。さらに、このような行為が流行することで、当然そのうちの何人かは実際に当選し、その人たちは「還願」(フアンユエン)というお礼をする必要が出てくる。すると、それによって人々が寄り付かなかった廟が建て替えられたり、奉納劇団の生活が潤ったりすることもあったという。

ここまで、大家楽の当選番号のような邪な願いに応じてくれる神と、そうでない神がいることは見てきた通りだが、中でも三尾(1995)による詳報は面白い。それによれば、太子を祀る壇では、太子と済公がそのような願いに応じてくれるというが、前者は中壇元帥三太子と関連があり、現地では伝説などがつくり替えられた地域の守り神として親しまれており、後者は羅漢の一人とされるが、肉食飲酒を愛す破戒僧でもあるため義に厚い側面があり、人々から人気のある神とされている。他方、媽祖を主神として祀る壇で、宝くじの当選番号を尋ねたところ、童乩を通じて「媽祖の務めは救世であり、不労所得を得させて儲けさせることではない。もし、儲けさせるとしたら、それで損をする人はどうするのか?」と拒絶されたというエピソードが記されている。

近年、人の身体の外部にあるモノが、人の主体をジャックして身体を動かすという、アフォーダンスという概念が広く見られるようになってきた。しかし、台湾の祈りの現場に目を向けてみると、God(神)やGhost(鬼)といった霊的な存在もまた人に囁き、人を動かしている。
ここに最新の科学技術が加われば、人はさらに「動かされる」存在になってゆくだろう。すでに自由に移動しているように思い込んでいる私たちも、Googleマップの指示通りに移動ルートを決定しているし、腕に特殊な機材を装着することで、ピアノ奏者が演奏したデータを身体に入れることができ、突如、演奏できるようになるというNTTドコモのCMまで登場している。電気で塩味を感じさせるエレキソルトや、イーロン・マスクが取り組んでいる、直接脳に埋め込むデバイスBMIの開発など、「人を動かす技術」の開発はますます加速するだろう。
こうした「プレ電脳化」とでも呼ぶべき諸現象が、《攻殻》における「ゴーストの囁き」や、神に身体を譲る童乩、その囁きに耳を傾ける信者たちに見られるゴーストとシェルの関係とは、何か質的に異なるように感じられるのは、単に現地の世界観を重視する人類学者のロマン主義なのだろうか。プロトコル上に乗っかって、自動的に計算された「私」のコピーと一体化しているプレ電脳化したヒトには、はたしてどんなゴーストが囁いているのだろうか。

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の中でバトーは、「ゴーストのない人形は悲しいもんだぜ」と言う。義体は動いていても、記憶が改変され、主体的に動けない場合、そこにゴーストはないのかもしれない。このセリフは、バトーから電脳化へ向かう人類への大きな宿題なのかもしれない。こうした時代だからこそ、「ゴーストが囁く」とはどういうことなのか、これまでの人類がおこなってきた方法を今一度振り返ってみることに、大きな意義があるのではないだろうか。

Ghost(鬼)とGod(神)を中心に考える身体観

教科書的ではあるが基本的な身体観の理解として、近代的な心身二元論的身体観と、東洋的な全体論的身体観というものがあるだろう。《攻殻機動隊》の作中でも、この2つの身体観に裏打ちされた表現が散見される。電脳と義体とを分け、電脳に主体をもたせ、義体が壊れれば交換可能とする世界観には、近代哲学を始めたデカルトが「我思う故に我あり」とし、世界の中心にエゴを置き、二元論で世界を切り分け、心に対応する身体を機械のように考えた機械論的身体観を突き詰めたあり方が見られる。
一方で、東洋的身体観は一元的とされがちだが、陰陽、男女、右左などの二元論的認識も強く見られる。しかし太極図に表れるように、陰と陽は本来ダイナミックな関係であり、両者はしばしば入れ替わり、補い合いながら、バランスの上で成り立っている全体論的なもので、けっして陽が陰に優越するようなものではない。

《攻殻機動隊》の身体観もまた、心身二元論的/アンドロイド的な機械の身体だけが描かれているのではない。義体は修理や交換が可能で、腕がちぎれても身体のそれ以外の部分は問題なく可動するシーンが描かれる。一方で、ちぎれる前の腕が痛めつけられれば苦悶の表情を浮かべ、うめき声を漏らしてもいる。ちぎれても平気な身体の一部分でありながら、身体には痛みという刺激が流れている。機械のような部品でありながら、全体とつながっている身体である。
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の冒頭で、草薙素子は「生理中なの」と言う。義体にも生理があるのだろうか、というシンプルな疑問が生じる。生理があるならば、工場でつくられる義体もまたセックスによって子孫を残すのだろうか。あるいは原作漫画「03 JUNK JUNGLE」では、草薙素子が女性3人と電脳FUCKをする。『ARISE』でも、草薙素子と干頼晶とのセックスを思わせる表現が見られる。これらは性的欲求を満たすためや愛情を確認するためのものであって、けっして子孫を残す目的でおこなわれているわけではないようだ*1
しかし、義体はセックスを通じて子孫を残さないとしても、義体に生理という機能をもたせている点にこそ《攻殻機動隊》の身体観が表れているとも考えられないだろうか。機能として不要だからと切り落とされるわけではなく、人間らしい身体の要素として残されている──ビールを飲んだり、桜の花を24時間監視したりするのも、これと同じ描写であろう。そもそも義体に性別があること自体、単に機能だけを追求した場合には不要のはずである。しかし、草薙素子は女性として、バトーは男性としての義体をまとっている。

このように《攻殻機動隊》で描かれる身体観は、西洋近代のそれとも、東洋のそれとも異なっている。単に心身二元論的なソウルとボディの延長線とは異なる「こころ」と「からだ」のあり方が想定されている。電脳が複数の義体に入れられるような身体観でありながら、デカルト的に常に電脳が義体に優越するわけではない。
メカ関帝は、ソウルである「中の人」には主体が見出されないにも関わらず、シェルとしてのメカ関帝だけでは可動することができない。しかし、カミとしてのゴーストが宿るのは、やはりシェルのほうである。なぜならば、「中の人」が誰であろうと、人々は関帝にこそカミを見るからである。そうであるならば、どこか核のようなものがあるが、その核だけでは動かないカミを動かす「何か」をゴーストと考えることはできないだろうか。
ゴーストとシェルは、どちらか一方では成立しえない。東洋の陰陽という概念はこれ近い。やはり光と影も、どちらか一方だけでは成立しないのだ。影だけではただ黒いだけだが、光だけでは白飛びして何も見えない。両者のバランスの中で成立する身体観を取り入れ、これからのゴーストとシェルのあり方を考えてみること──私たちが暮らすこの世界の中に、継承されるフォークロアの中に、そのことを考えてみるためのヒントがあるのかもしれない。

[註]
*1
子孫を残すというという点に関して言えば、草薙素子が人形使いにダイブしている際のやり取りで表現される。草薙素子と人形使いが「融合」し、「新しい君」が「ことあるごとに私の変種をネットに流」し、「死をうる」ことが、「子孫を残して種を得る」ということのようだが、それであれば義体に生理がある必要はないのではないか。

[参考文献]

●佐々木宏幹「問神の儀礼過程と依頼内容-台湾・台南市の一タンキーの場合-」吉田禎吾、宮家準編『コスモスと社会-宗教人類学の諸相』慶応通信、1988年

●佐々木宏幹「陰と陽のシンボリズム 台湾・台南市の東岳殿と玉皇宮の事例から」『文化』13、1990年

●曽景来『台湾宗教と迷信陋習』台湾宗教研究会、1939年

●三尾裕子「<鬼>から<神>へ : 台湾漢人の王爺信仰について」『民族學研究』55(3)、1990年

●三尾裕子「「有応公」信仰に見る漢人の世界観」阿部年晴、伊藤亜人、荻原眞子編『民族文化の世界 上』小学館、1990年

●三尾裕子「「賭事と「神々」 台湾漢人の民間信仰における霊的存在の動態」田辺繁治編『アジアにおける宗教の再生 宗教的経験のポリティクス』京都大学学術出版会、1995年

●三尾裕子「植民地経験、戦争経験を「飼いならす」 日本人を神に祀る信仰を事例に」『日本台湾学会報』19、2017年

●渡邉欣雄『漢民族の宗教: 社会人類学的研究』第一書房、1991年

●David K. Jordan, Gods Ghosts & Ancestors: Folk Religion in A Taiwanese Village, University of California Press, 1973

●林富士『孤魂與鬼雄的世界』北縣文化出版、1995

●林茂賢『台灣民俗記事』萬卷樓、1999


藤野陽平
ふじの・ようへい/北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授。博士(社会学)。専門は文化人類学。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員を経て、現職。著書に『台湾における民衆キリスト教の人類学ー社会的文脈と癒しの実践』(風響社、2013年)など。