
きらったり、愛したり、よく見たり、おどったり──交換できない身体の交換日記
図版_寺本愛[Ai Teramoto]《攻殻機動隊》シリーズを象徴する造語のひとつ「義体」。義肢や人工臓器といったテクノロジーによる身体の補完は、ときに脳や中枢神経系にまで及ぶ。全身の義体化が何を引き起こすかは、作品の重要な問いかけのひとつだろう。
翻って、2025年時点の現実はどうか。いまだ生まれた肉体に折り合いをつけて生きるしかない世界、ほとんど初期アバターのままで、べつのアバターへと着替えることのできない世界である。医療機器、補助具、手術、あるいは身体改造、筋肉や脂肪の量の調整、服や装身具の着用──手を加えられるのは、せいぜいこれくらいだろうか。
以下に始まる対話は、本章にエッセイを寄稿した翻訳者・山﨑燈里と共同監修者・堀川夢が、そうしたローカルな身体について交わしたものである。まず語られるのは、堀川による自身の身体への違和感だ。幼少期から続けてきたバレエを通して、「美しい身体」のイメージを刻まれてしまったと話す。それを受けて山﨑は、台湾で出会った子どもとのエピソードを交えながら、身体を全体的な働きとして捉え直すことを提案する。
ダンスや食、セクシュアリティ、ボディニュートラル……ふたりは様々なトピックのあいだをさまよい歩きながら、けっして経験できない他人の身体を手探る。本章のあとがきのような交換日記。
目次
2024年7月16日20時
燈里さん、
どうやって書き出したらいいかわからないので、わからない、とそのまま書いて、この交換日記を始めますね。
先日はありがとうございました。トルコ料理は美味しく、「Tac’s Knot」は楽しかったです。知っていることも興味の範囲もとても幅広い、そしてどこか捉えどころなく深い燈里さん、お会いするといつも「何から話そう!」という気持ちになりますし、帰り道では話し忘れたことをいつも数えています。
「身体」がテーマの交換日記。とりあえず私は、「自分の体がとっても嫌い」という点が確かである、というところから書き始められるかなと思います。
まず、自分の体が嫌いなことについて。
3歳くらいから踊りを習っているのもあって、「美しい身体」に対する強固なイメージがずっとあります。つまり、バレエダンサーの身体のことですね。どこまでも細くて腱や筋肉の浮き出すような身体、手脚と首の長い、胸やおしりの凹凸を極限まで削った身体を美しいものとしてここまで生きてきました。翻って自分の身体を見てみると、手脚は短く、太腿は筋肉で太り、骨盤の幅は狭くておしりは小さいけれど、胸は大きい。自分がもっている美の基準からみて、ぜんぜん美しくない、愛せない身体なわけです。それから、自身もダンサーの母親が私の身体について色々口出ししてきたこともあって、ボディ・ポジティヴも、ボディ・ニュートラルも太刀打ちできないくらいに、私は私の身体に対するヘイトを募らせてしまった。
加えて、私は自分のことを、女性とも男性とも思えない。できれば、男性器も女性器もない、でこぼこのない、ニュートラルな身体が欲しいのに、顔も身体もめちゃくちゃ「女性」らしくて、もうこれは半ば諦めています。
燈里さんが自分の、あるいは他者の身体を意識するときは、どんなときですか? ジムに通っていらっしゃると思うのですが、筋トレや運動をしているとき、またその変化について、自分の身体をどんなふうに捉えていますか? 音符のタトゥーについても、もっと聞きたいです。立ち入ったことを聞いてしまっていたらごめんなさい。答えられる範囲で大丈夫ですので……。
ひとまずこのあたりで筆を置きます。今日は霧とほぼ区別のつかないような雨が降っていて、仕事の道具を山ほど持っていなければ好きな天気でした。気温と湿度が過酷になってきましたし、コロナもまた流行っていますし、ご体調に気をつけてお過ごしください。
夢
2024年7月17日1時
夢さん日記ありがとうございます。書き始めが一番難しかったと思います。日記をいただけたのが嬉しすぎて、深夜ですが早速お返しの交換日記を書こうと思います。
先日は楽しかったですね。トルコ料理はそんなに量を食べなかったはずなのに、品数が多かったからか満足感がありました。ラクのような強い蒸留酒を飲みながらおかずを色々つまむのが好きで体が温まりました。
私は昨夜も今夜もTac’s Knotに行ってきました。昨夜はメキシコから旅行で来ている友人カップルがふたりとも今月お誕生日だったので、Tac’s Knotに友達を10人ほど呼んでサプライズの誕生日会をしてきました。今夜は「ぷれいす東京」というHIV・エイズ啓発のNPO団体が新宿にあるのですが、その代表の生島さんとTac’s Knotで打ち合わせでした。今日は夢さんと一緒に行ったときと同じ火曜日で、ハスラー・アキラさんがオリジナルのレモンジンジャーのカクテルをつくってくれました。夢さんはどんな日々をお過ごしでしょうか。
テーマである「身体」について、個人的で大切なお話を共有してくださったこと、感謝します。日記を読んで夢さんが「自分の体がとっても嫌い」なことが気になり、よければ一緒に考えさせてほしいです。幼少期からバレエを習っていた友人は何人かいますが、皆共通して体へのコンプレックスを強くもっているように思います。バレエ未経験者の私から見るとバレリーナは全身筋肉のアスリートだと思います。ストイックに追い詰めて鍛え上げて初めてできるダンスであるイメージが強いですね。
私が家庭教師として日本語を教えてきた台湾人の子どもがいます。はなちゃんといって今年で6歳になりました。初めて会ったときはまだ1歳で、第一言語の北京語も話せませんでした。台北に住んでおり、日本につながりはなく、日本語でコミュニケーションをとる人も私しかいませんでした。外国語の習得には必然性か強い興味が必要です。はなちゃんにとにかく色々見せて聞かせて話しかけ続けたところ、幼児向けの音楽への反応がよかったんです。とくに「チェッチェッコリ」に大ハマり。5回も6回も繰り返し曲を流してニコニコ聴いているのですが、同じ曲でも違うアレンジや歌手を聴き分け、具体的な好みがあることが分かりました。ジャズ版の「チェッチェッコリ」のリズムを気に入って体を振っていました。そこからは、楽しい子ども向けの曲を聞かせて一緒に歌って踊る日本語レッスンにしました。気づいたら歌詞を口ずさむようになり、曲の感想を喋るようになり、全身で無茶苦茶に踊るようになり、3歳からバレエを始めて、いまは将来バレリーナになりたいと言っています。踊るのがとにかく楽しいらしいのです。いまでも音楽を流せば全力で踊るし、新しいポーズや動きをいつも見せてくれます。こんなに小さい体なのに綺麗に柔らかくポーズを止められてすごい。髪を全部ピンでまとめ上げて固めて、「先生は厳しいけどバレリーナになりたいから頑張る」と早くも踏ん張るはなちゃんは、夢さんと同じ牡羊座です。夢さんも3歳でバレエを始めて6歳になったとき、こんなふうに楽しく踊っていましたか? 踊るのに夢中になるというのはどんな身体感覚なんでしょうか。はなちゃんはいまは体型を気にしていないように見えますが、いつか理想のバレリーナと自分の体を見比べる日が来るんでしょうか。
夢さんは自身のお体を部位ごとにすごく詳細に見ているんだと思いました。それはお母様の語り口、またはバレエにおける美の基準に基づいた評価と同じように見えます。夢さんは「顔も体もめちゃくちゃ女性らしい」と書いていました。私は夢さんを見る時、女らしい顔だとか、よもや男らしい顔だとは思いませんでした。ただ夢さんのお顔だと思って見ています。バレエをやらない私の体は夢さんの美の基準で見ると美しくないと思いますが、私の体を醜いと思うか、もし夢さんに尋ねたら、きっと気遣いではなく否定してくれると推測します。自他の体を見るとき、なぜその解像度が異なるのでしょうか。
私の身体の変化についても質問していただきました。私は子ども時代から10代にかけては色々な理由で食が進まず、全身骨が浮き出るような痩せ方をしていました。夢さんと同じで母のコンプレックスの投影は要因のひとつでした。大人の女の体になることが怖く、その拒絶感もありました。ご飯を食べ始めたのは、自分の体を細部まで観察して分析するのをやめ、代わりに周りの女の子たちの体をよく見るようになってからです。現実の女の子はじつに多様な体型、肉付き、手脚の長さ、肌の色、体毛があるとそこでやっと気づきました。痩せていないと醜いと思い込んでいましたが、ではいま、隣にいる痩せていない女友だちを見て私はその体を醜いと思うのかと、自分に問いかけたことがあります。醜いとはまったく思わなかった。美しいとも女らしいとも思いませんでした。ただそれが彼女の体なんだと思いました。そしてここにあるのが私の体なんだと思った。同性が好きでよかったと思うことがあります。私の場合は他人の女性の体を知ることで初めて自分の体を知るという側面がありました。相手の体を大切にしようとする態度が自分の体の受容に繋がりました。当時、ひどく痩せていても自分の体は太っているという強迫的な思いに駆られ、体を正確に認知できませんでした。それは母や男性や美容広告の目を通して自分を見ていたからです。いま鏡の前に立つと、自分の体に大切な女性たちの体が重なって見える気がします。自他の体はけっして思い通りにならない、だから尊い。夢さんもバレリーナではなく、お母様でもなく、いったん自分の体でもなく、先に私の体を見てみませんか。多種多様な身体のうちのひとつのサンプルにしてもらえたら嬉しいです。
周りから女性として扱われることに私自身は問題を感じていませんが、自分のことは女だとも男だとも思っていません。胸の切除を考えたこともありますが、胸や性器を女の象徴として着目するのをやめました。自分の体を部位ごとに分類せず全体像として感じるようにしています。その感覚が生きる場面のひとつが、私にとっては運動やダンスです。今月からポールダンスを始めたのですが、私本当無様なんですよ! 痣だらけです。体重と重力をこんなに感じたことはありませんでした。ダンスは楽しいですが、型やジャンルに入るためには要練習ですね……。股関節が硬すぎて、はなちゃんに柔軟を教えてもらっていました。
初回の交換日記から説教臭くてすみません。暑くなってきたのでよくお水を飲んでくださいね。ジャンルやレベルは全然違いますが、この夏は各々の体で喜びをもって踊りましょう。私は夢さんの体がとっても好きです。
燈里
2024年8月1日18時
燈里さん、
すぐお返事をいただいていたのに長々とお待たせしてしまいました。すみません!
真夏ですね。私は暑いと睡眠時間がどんどん延びてしまうのですが、日中から眠くて仕方のない日々が続いています。なんだか歯まで痛くなってきた。まったく、こんなに気候変動があからさまに進んでしまって、どうしたらよいのでしょうね。
Tac’s Knotは「安全な場」という感じで楽しかったです。タックさん(大塚隆史さん)の『二丁目からウロコ 増補改訂版 新宿ゲイ街スクラップブック』(論創社、2023年)も面白く読んでいます。お誕生会も素敵ですね! きっと祝われたおふたりにとっても燈里さんにとっても、楽しい日になったんじゃないでしょうか。
お誕生日、1年でいちばん好きな日だなあ。燈里さんは1年のうちで好きな日はありますか?
自分の体が嫌いなことについて、一緒に考えてくださってありがとうございます。ひとりだと視野狭窄に陥るに決まっている話なので、燈里さんの書いてくれたことから、たくさんの気づきがありました。
自分の体を仔細に見ている、ということにまず気づいていませんでした。やっぱりバレエの「美の基準」を自分になんとか適用しようとしてしまうんでしょうね。ほかの人たちの体や顔を見てもなんとも思わない、美醜というジャッジの舞台にそもそも乗せようとも思わないのに、自分の身体や顔には無限にダメ出しをしてしまう。ほかの女性の体を見てみよう、という考え自体、全然ありませんでした。体に関するオブセッションを抜け出したときの話をお聞かせくださってありがとうございます。「相手の体を大切にしようとする態度が自分の身体の受容に繋がりました」とのこと、なるほど! と思いました。私は他者がずっとずっと怖くて、どんなに親しい友人でもできるだけ遠くにいようとしてしまうのですが、相手の向かい側に自分をおいて、どちらも同じ大切なものとして扱う、という姿勢は優しく、より健康的なあり方だと感じました。周囲の人たちが自分の体についてどんなふうに捉えながら存在しているか、たぶんついつい脚の形とかに着目しそうになってしまうのをこらえて、自分がどう感じるかをよく見てみようと思います。
燈里さんの近くにある踊りの話についても教えてくださってありがとうございます。燈里さんもはなちゃんも、どちらもとっても素敵! 踊りが好きな人が世界にいる、というのはとても嬉しいことです。
踊るのが大好きなはなちゃん、どうかそのまま、踊るのが大好きなままでいてほしいと思いました。バレエにはつらいこともたくさんあるけれど、どうか自分の踊りたい踊りを踊るための、性質や体型でなく練習で乗り越えられるつらさだけ味わって、バレエをずっと好きでいてほしい。牡羊座なら、好きなことを見失わずに見つめ続けることができるのではないかと思います。
私が無邪気に楽しく踊れていたのは、たぶんいまのはなちゃんくらい、5、6歳くらいまで。小学生になったころには母のジャッジが始まっていたので、それ以来ずっと「私が踊っても綺麗じゃない」と思いながら、それでも踊らずにいられない、舞台に立つ喜びを忘れられないので踊ってきました。
バレエの次に始めたベリーダンスでは、先生たちも生徒さんも「どんな体も美しいし、見せたければ見せていい」という価値観のもとに踊っている(少なくとも、その価値観が推奨されているのでそう見えます)し、それはとっても素敵なことだなと、自分に上手く適用できるかどうかはともかく、心から思っています。踊りは私だけのものなのだし、母親を言い訳にいじけているのもダサいから、いい加減逃れた方がいい。難しいけれど……。
そしてポールダンスかっこいいですね! 足のつま先にまで気を配って、すごくテクニックのいることを軽々やっているように見せないといけない点において、バレエと近いところがあるんじゃないかなと思っています。筋力もすごく要りそうですしね。そしてダンスって痣だらけになりますよね! 最近踊っているコンテンポラリーダンスも床を転がるので、赤くなった膝をよく写真に撮っています。いつかショーや舞台に出るときは、観に行くのでぜひお知らせくださいね。
梅雨が明けたらもう本当に毎日暑いですね! 来週からヨーロッパなので、多少は涼しいことを願っています。
燈里さんがむかし書いていた記事の荷物の少なさを見習って、小さいスーツケースで3週間弱の旅に出ようと思っています。
燈里さんも、熱中症や夏バテにお気をつけて、水を飲んでくださいね。ではでは。
夢
2024年8月12日9時
夢さんは今頃ヨーロッパに滞在中でしょうか。どんな時間をお過ごしでしょうか。荷物は小さく納まりましたか? 2018年に「旅の必携品所持証明 my traveling com-panions」という荷造りについての記事を『She is』に書いたのが懐かしいです。私はあのときから変わらず、今週末飯能に小旅行に行くための小さな荷造りをしていました。
私も金曜日にタックさんに会いに「Tac’s Knot」に飲みに行った際、『二丁目からウロコ』にサインをもらい、2日で読み切りました。文才があるというのはこういうことなんだろうなと思わされる、タックさん独自のユーモアある語り口で、これまでの人生を軸にゲイリブや2丁目の歴史が綴られていました。Tac’s Knotの始まりのエピソードも貴重でした。夢さんも読み終えたら、今度は金曜日のTac’s Knotに飲みに行きませんか? タックさんが「感想聞かせにまた飲みに来てちょうだい」と仰ってました。
誕生日、私も大好きな日で、自分の誕生日というよりは、他人の誕生日をお祝いする文化が好きです。今週末もパートナーの誕生日会が控えています。一緒にTac’s Knotで飲んだ日に夢さんに相談していた恋バナですが、願いが叶い無事お付き合いする運びとなりました。たしか夢さんと一緒に行った日はハスラー・アキラさんがバーテンの回でしたよね。最近アキラさんと何度かお話しする機会があり、レズビアンのアートが必要だと激励されています。パートナーと楽しむようにと、キース・ヘリング美術館の招待券をいただきました。どの表現分野でもビアン当事者によるビアンの表象はとにかく少なく、ビアンの表現が素人や下手なものも含めて数がもっと出てくる社会に生きたいと思っています。これまで私は自分のセクシュアリティを公開してこなかったのですが、ビアンアートについて思いを巡らせ、まずはその表現したいという意思を書いて誰かに見てもらうという第1ステップが今回の交換日記になりました。パートナーと初めて出会ったのも、レズビアンを公表している小説家、李琴峰さんの講演会でした。また、アキラさんを知るきっかけになったのは、18歳の時に初めて見たドラァグのパフォーマンス、ダムタイプの「s/n」(1995年)という作品でした。両者共に当事者が「アウトする」行為を力強く後押しするものであり、そのような先代のゲイの表現に勇気づけられてきた者として、私もこれからは外に出ていく新しいフェーズに招かれつつあるよう、最近は感じていました。
夢さんを通して、改めて体について考える機会がありました。単語だけ出ていましたが、ボディニュートラルは、体の見た目ではなく、自分を生かす体の働きに目を向けるという新しい視点を私に与えてくれる概念でした。例えば、夢さんは子供のときからずっとダンスを続けられる体、そしてダンスによって鍛えられてきた、かたちづくられてきた体をもっています。それは素晴らしいことだと思います。私は2年ジムに通って筋トレを続けてきましたが、ボディメイクが目的ではなく、このボディニュートラルを目指しています。つまり、健康的な生活を送れる体を自分でつくりたいという思いです。私は自己免疫疾患で体調に波があるのですが、調子のいいときに少し体を動かしておくことで徐々に筋肉がつき、体の動かし方がわかって楽になりました。ご飯も食べられるようになった。その時々のホルモン量や薬の量のバランスで体重が変わり、それは気をつけていても完全にはコントロールできないので、体型に一喜一憂せず、自分の体が心地良い状態であることを目指しています。日常を体が心地良く過ごせるよう模索して、運動をはじめたくさん自分なりのハックをつくってきました。自分の体がすごく好きだとか、優れているとか、美しいとは言えません。でも病気があろうが自分の体が自然に思えるし、私はこの体でしかなかったと思っています。
ヨーロッパの旅の様子ぜひ教えてくださいね。引き続き楽しくお過ごしください。また書きます!
燈里
2024年8月13日3時
燈里さん、
スコットランドはエディンバラの空港で夜明けを待ちながらお返事を書いています。旅の荷物自体はかなり小さくなりましたが、すでに本を10冊くらい買っていて、結局トランクが重いです。
7年振りくらいに空港泊をやっているのですが、今回は普通に体が痛くなったりしていて、「あのころは若かったのか……」といまさら気づいているような気持ちです。これからはあまり無茶をしないのが大切かも。空港では、地元のブルンジから働いているクリーヴランドに飛ぶ途中でトランジットにミスってしまい、1日半を空港で過ごす羽目になったお姉さんにWi-Fiと充電器を貸したりしました。そのお姉さんとも保安検査場前で別れ、2時間後のフライトでベルリンへ飛ぶところです。昨日まで滞在していたグラスゴーは、「治安が悪い」という断片的な前情報に反して穏やかで、美しく人懐っこくていい街でした。でも、ベルリンにいるときにもっとも心が安らぐので、魂の故郷へ帰るような、穏やかで嬉しい気持ちです。眠いけれども!
あのときのお話の恋が成就したのですね! おめでとうございます〜。アキラさん、粋なプレゼントをされますね。さすがです。燈里さんの表現の第一歩としてこの交換日記を思ってくださっているとのこと、とても光栄です。クィアとして世の中を見ると、いかにシスヘテロ的表現が溢れていて、そのほかの多様なあり方の表象が少ないかに気づかされますね。こんなことを書くと怒られそうですが、数年前まで、セクシュアルマイノリティの人が自分と同じ表象を世の中に増やそうとする理由がよくわかっていませんでした。私は小説の好きな人間なので、いろんなことを「小説の世界ではどうかな」という尺度で考えがちなのですが、「フィクションは好きだけれど、所詮フィクションなんだし、現実に自分や誰かがいる、という事実だけではダメなのだろうか」と思っていたんです。でも、自分のあり方がクィアであることに気づいて(私にとって、気づくことと傷つくことはいつも≒なので)、「あなたはひとりじゃない」「ここにもいるよ」というメッセージを含んだフィクションがどれだけありがたいかが身に染みました。ダムタイプは、アーティゾン美術館で再展示された「2022: remap」(2023年)を観たことしかないのですが、あの光や音の群れは「日本の外に出たい」と思いながらなかなかそれを叶えられていなかった昨年の私にとても沁みました。「S/N」は伝説的な作品ですよね。まだ観たことがないのですが、上映の機会があったら絶対行こうと思っています。でも、そういった「偉大な誰か」によるマスターピースだけでなく、あらゆるひとによるあらゆるアートが当たり前にそこにある世界、自分もアートを生み出していい世界(本当はいまの時点でも生み出していいんだけれど、色々な意味で難しいですからね)になると呼吸がとってもしやすそう。燈里さんがこれからつくるアート(燈里さんの楽譜とそのタトゥーはすでに素晴らしいアートだと思っていますが)、どんなものになっていくのか、楽しみです。
ボディニュートラルについて、「自分を生かす体の働きに目を向けてみる」「日常を体が心地良く過ごせるようハックする」という捉え方があるのか、というの、大きな気づきがありました。たしかに「ニュートラル」には観察が不可欠……! 自分の身体の状態を客観的に見て調整していけるのって、(きっと色々な努力や試行錯誤の末にそこに至ったのだと思うのですが)ひとりの人間として健やかなあり方だな、と読んでいて思いました。日常を心地よく過ごすこと……なんというか、私は自分をあえて居心地の悪い状態に置くこと(傷を触って治りを遅くしたり、部屋を極端に寒くしたり、暑くしたり、限界まで空腹を我慢したり)をよくしてしまうのですが、これって自傷的な振る舞いなんですよね。自分が存在していて心地よい状態にあること、それを探ることを早くゆるしてあげたいです。こうやって書いてみるとすごく自分に目を向けているみたいですが、膠着した自分に対する視点から! きっと、もっとほかのものを見たり読んだり聞いたりして、それらを眼鏡屋さんの検眼枠(っていうんですって、あの器具)みたいに差し込んだり外したりしながら見てみるべきなのかも。燈里さんは、少なくとも私よりはそれがとても上手に見えます。ご自分でどう思っているかはともかく私からはそう見えています。
これを書き始めたときはグラスゴーの空港にいたのに、ベルリンで腑抜けた10日間を送っていたせいで(魂が口から半分出ていても安全に過ごせる街、それがベルリン)、この締めの段落を書いているのは帰国後の日本です。ベルリンでは、街をフラフラしたり、墓地をめぐったり、プラネタリウムを観たり、湖で白樺のお酒を飲んだりしていました。東京で暮らしているときには味わえない、気を張らずに街を歩いて夜眠れる安心感と、エトランゼとしての気楽さを目一杯享受して、生き返った……。それこそ、ドイツでは人が他人の見た目をほとんど気にしていないようなところがあって(本当のところはわからないけれど、少なくとも私にはそう見える)、暑ければどんな歳でもどんな体型でもタンクトップやショートパンツを着るし、全身決まったゴスの人とTシャツジーパンの人が普通に一緒に遊んでいたりします。毛を剃っても剃らなくても、メイクしていてもノーメイクでも、髪がボサボサでもきれいに整っていても、それは自分の居心地よさを追求した結果である、という感じがします。あとは、久々にドイツ語で話して考えて、だいぶ脳みそがリフレッシュしました。私にとってドイツ語(と英語)は翼だな、と思っています。母語でない言葉で話したり考えたりすることについても、ぜひ燈里さんとお話ししたい! でもここでは文字数がかなりのものになってしまっているので、また別のところでぜひおしゃべりしましょう。
ではでは。
夢
重力とは要するに動き、重さ、抵抗、力といった、肌の触感に次いで最も原初的な肉体性の経験なのだ。それゆえに、おそらく重力とは死の甘美さとそれに抗う私たちの強さであり、地球の引力とそれに抗う筋肉の力、その2つが作り出すモメンタム、そしてその際どいバランスを享楽で充たしている。
──レベッカ・ソルニット『迷うことについて』(東辻賢治郎訳、左右社、2019年、p.163)
山﨑燈里
やまさき・あかり/1992年生まれ。茨城県出身在住。翻訳者、作曲家。ジェンダー・セクシュアリティ、アクティビズムをテーマにエッセイや取材記事を書く。また、コミュニティ・オーガナイザーとして、本とDJとゲストのトークを交えたクィアパーティ、「こどくにおどるクィアの集い」を都内で定期開催中。好きな食べ物は牡蠣。
堀川夢
ほりかわ・ゆめ/1993年生まれ。北海道出身、東京都在住。出版社勤務を経て、SF企業VGプラス所属の編集者、ブックキュレーター。フリーランスとして翻訳や選書、書評執筆なども行う。海外文学とドイツと西洋美術と短歌とダンスと銭湯とまぐろのお刺身が好き。