甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》岡山県、2018
下掛宝生流ワキ方の能楽師・安田登と、気鋭の若手保守批評家・浜崎洋介の対談をお送りする。本対談では、映画『イノセンス』で参照された能の身体感覚を手掛かりに、AI時代における身体・伝統・保守についての議論が展開される。対談を貫いている「日本的身体」とは、身体に霊性を、自然環境に神聖性を感じるような関係論的なものであるが、それは「神」や「主体」などの虚焦点を想定するキリスト教的な思考方法や感覚とは異なるものとして扱われていることをはじめに断っておきたい。その違いを認識したうえで、AI時代以降における私たちの「身体」のあり方を問おうというのが、この対談の主要なテーマである。
安田は、650年の歴史をもつ、現存する世界最古の舞台芸術である能を専門としながらも、アメリカのボディワーク「ロルフィング」から日本・中国の古典に関する学識、あるいは過去に3DCGやゲーム、インターネット関連の書籍を執筆するなど、じつに広範にわたる領域を渡り歩いてきた経歴をもつ。対する浜崎は、福田恒存という日本の保守思想家を博士論文の研究対象に選び、『反戦後論』(文藝春秋、2017)や『シリーズ・戦後思想のエッセンス 三島由紀夫』(NHK出版、2020)などの著作を通じて、戦後の日本社会を批判してきた論客である。そこには「生命」や「充実」をこの現代社会にどう取り戻すのかという問題系が一貫している。
はたして本対談では、情報化社会が画一性を拡大させていく中で、いまの私たちが喪失しかけているもの──かけがえのなさ、全体における個の位置づけ、歴史とのつながり──をめぐる悠揚自在な対話が実現した。変わりながらも、続いていく。守りながらも、新しくなっていく。そのような困難な課題を、第四次産業革命を迎える世界は、担わなくてはならない。二人の対話には、私たちが社会の変化と連続のはざまで、どのようにバランスをとるのかを考えていくためのヒントがたくさん眠っている。
目次
甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》岩手県、2018
身体を外部へと開き、全体の一部となること
浜崎押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(以下、GIS.)と『イノセンス』を、「身体」をキーワードに対比的に観てみました。前者が扱っているのは心身二元論的な問題で、草薙素子は自分の身体と心が一致しないことに悩んでいます。要するに、記憶や感覚刺激さえ疑えるというデカルト的な懐疑、その無限後退的な疑いの中にいます。そして、このリアリティの希薄さから抜け出したいと願いながら潜水=瞑想した直後に、ある「声」が聞こえてしまう。その声の「たしからしさ」に縋って素子が動き出し、ついにはこの世界の外へと連れ出されていく、というのがこの物語のメインテーマでしょう。
一方、『イノセンス』はその真逆を行く。現状から抜け出すのではなく、現状を引き受けながら、なんとか上手くやっていくということが主題になっています。それゆえ素子は現れず、焦点はバトーに移る。その主題が最も明確に出ているのがバトーとキムの対決です。キムは、身体に縛られながら不確実な世界を生きなければならない「人間」が嫌で、嫌で仕方がない。そこでキムは人間を超える三つの存在──神、動物、人形──を語る。しかし、私たちは「神」になることはできないし、その逆に無意識そのものであるような「動物」に戻るわけにもいかない。そこで、キムは「人形」を選ぶわけですが、それは身体を切り捨ててきた西洋合理主義の究極の欲望、つまり、動いているものの不確実性を払って、生きているものを止めてしまいたい、生を対象として所有したいというネクロフィリックな欲望の表れでもあります。
その後、バトーがどうやってキムを退けたのかは、後で述べたいと思いますが、この映画の結論は、エンディングを見れば明らかでしょう。結局、バトーは犬との、トグサは娘との、平々凡々たる日常に帰ってくるわけです。『GIS.』が日常の向こう側に行く話だとする話だとすれば、『イノセンス』は日常のこちら側に、つまり身体の側に戻ってくるという話で、この二作の印象の違いは決定的だと思います。
安田私はこの企画の依頼をいただいて初めて『イノセンス』を観ました。なるほどこの作品の世界観をめぐる「身体性」というのは、たしかに能のそれとも重なり合う部分が大いにあって面白かった。
そもそも能における身体性についての話をさせていただくと──身体性を言葉で語るということ自体、矛盾した行為なのですが──能の舞台では基本的にほぼ全員、流派の異なる人たちが集まって作品を上演します。流派が異なっているということは、もっている台本も違うということです。それなのに一緒に練習をしない。では、なぜ舞台上でピッタリと息が合うのかというと、「コミ(込)」があるからです。「コミ」とは「息を込める」という意味で、例えば大鼓の人が鼓の音を鳴らす際に「(息を込める音)ヤ、カンッ」と叩く。すると小鼓の人が「(息を込める音)ヨオ、ポンッ」と続く。この「息を込める音」=客席にいて聞き取ることはできないけど、舞台上では共有されている呼吸を演者同士互いに感じ取ることで、初めて舞台が成立する。ですから能の稽古というのは、この呼吸を読む稽古が中心になると言ってもいい。
どうも「身体性」と言うと、一般的に皮膚の内部で起きていることと捉えがちです。フランシスコ・ヴァレラは『The Embodied Mind』すなわち「身体化する心」という本を書きましたが、しかし私からすると「Mind=心」という単語では少し物足りない。どちらかというと「Spirit=魂」、その語源であるヘブライ語の「ルアフ(רוח)=息・命」のほうが近いのではないか。能の身体性というのは皮膚の外部に開かれたもので、かつそれを共有することでもあるのです。
さらに言えば、能では最初「シテ」と「ワキ」の対立が表現されますが、会話をしているうちにだんだんと線引きが曖昧になり、やがて一緒になってしまう。この状態を「共話」と言いますが、これは日本語に特別な感覚です。例えばAさんが「今日の地震」というと、Bさんが「大きかったよね」と続ける。ふたりでひとつの文をつくる、これを「共話」と言います。能のシテとワキは最初、対立関係にいますが、やがてふたりの会話が「共話」になると、その対立がなくなり、さらに盛り上がると「地謡」というコーラス隊に引き継がれる。すると、突然、風景を歌い出したりします。表層の意識がどんどん深化していき、それが集合的(collective)な領域にまで達すると、それは風景にまで拡張されていく。これが能の詞章の基本的な構造です。
浜崎いまのお話は、自他の〈あわい=身体〉の中でひとつの循環が起こってくるということですよね。それで面白いのは、やはり『イノセンス』で、その身体性が物語の結節点をつくっていることです。例えば、バトーは、キムのたくらみ──電脳をハックして幻覚を見せるというたくらみ──に気づくわけですが、それはバトーが、キムの「コミ」を読み取ったことを意味しています。バトーは「サインを読み取った」というふうに言いますが、要するに、身体を外部へと開きつつ敏感に兆候を感じ取ったわけです。キムを退けたあと、バトーは「鳥は高く天上に隠れ、魚は深く水中に去る」と言いながら城をあとにしますが、この台詞を、「鳥は身体を介して天とユニットを組み、魚は水中とユニットを組む」と理解すれば、その世界のユニットを構成している結節点、つまり、モノとモノとの〈境界=あわい〉に現れてくる身体を介して、この世界の兆候を読み取っていかねばならないのだと言っているようにも読めます。
実際、キムが死ぬときに、「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」という世阿弥の言葉が映し出されますが、それも、やはり、単なるモノとしての「人形」を生かしているのはひとつの生命力(ゴースト)で、その「あわい」に生まれてくるものこそが身体性ではないか、と言っているように読めますよね。
能の舞台では身体感覚はつねに外部に開かれていて、それが周囲の事物や環境にまで拡張されて一体化していく。他方、主体や自我の感覚を情報社会あるいは作中のCGの風景にまで延長させたのが『イノセンス』の面白いところでした。関係性のネットワークの中に人間を位置づけるというのは、東洋思想的な感覚とも通じます。
浜崎安田さんがおっしゃった「コミ」の話は、その場で移り変わっていく無限の組み合わせを前に、個別のリズムを読み取って全体性をかたちづくっていくということですよね。ただ、これは逆に言うと、身体感覚によって全体性があることを信じられているからこそ、その全体の適切な一部になろうと努力することも可能なのだとも考えられる。
例えば、福田恒存は『人間・この劇的なるもの』の中で、「真の意味における自由とは、全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことである」、それこそが私たちの「必然性」の感覚、あるいは「宿命感」を蘇らせるものだと言っていますが、まさに全体の中の一部になろうとする努力を支えているのが、外部に開かれた身体感覚なんでしょうね。ものすごく繊細な感覚で状況を読み、調整し、「調和」していく。この感覚は、能に通じていると同時に、『イノセンス』の隠れた主題なのかもしれません。
安田「調和」というキーワードが出たので少し続けましょう。孔子は『論語』の中で「和して同ぜず」と「周して比せず」ということを言います。「和」と「同」にそれぞれ対応するのが「周」と「比」です。「周」に言偏をつけると「調」、つまりこれと「和」で調和になる。『論語』で書かれている「和」という漢字は、もとは「龢(わ)」という文字で、左偏の「龠(やく)」というのは竹笛を何本かまとめた楽器のことを示している。すなわち、「和」というのは、本来、いろんな笛がそれぞれ同時に鳴りながら、ある調和を成している状態のことを指していて、「一人だけ違うことをして和を乱すな」というように、現在の「周囲と同じことをする」という意味合いとは真逆のことを言っています。流れてくるものをそのまま引き受けて、それでいてひとつの全体をつくるイメージ、これが「調和」です。
こうしたことを踏まえると、『イノセンス』を観て眠くなる感覚、つまり様々な混乱が起こり、半覚半醒のような状態になることは、主体的な意識が薄れて受動的な意識に向かって行くことであり、やはり能の舞台で起きていることと非常に近い。若い頃、師匠によく「お前は頭で考えすぎている」と怒られましたが、サブジェクティブ(主体的)な思考で能をしようとするとうまくいかない。まさに世阿弥の言ったオブジェクティブ(客体的)、「感(勘)」のようなものを働かせることが大事なのです。
人間の分割不可能な有機性
生身の身体によって環境における複雑性に感覚を研ぎ澄ませるというのは、情報化時代やこれからのAI時代とは正反対なことのように思えます。インターネットやAIというのはすべてを同じ仕組みに構造化し、効率化を志向するという発想。具体個別の無限の違いに繊細になり、環境の変化に適応していくことが生命の力だとすれば、新しい時代はそのような複雑性を認識する人間本来の感覚を削いでしまいかねないという危惧があります。
安田インターネットも黎明期はもっと個別性を志向していたはずです。しかし大きな企業に取り込まれていくと、それはやっぱり変化していってしまう。
浜崎個別性という観点でいうと、『GIS.』と『イノセンス』の風景描写が異なっていることも気になりました。『GIS.』は、文字通り「情報の海」を描いていて、あの情報とこの情報が具体的にどう関係しているかは分からない。非常に並列的で、アジア的なカオスの感覚がある。一方『イノセンス』では、風景が有機性を帯びている。アジア的ではあるんですが、こちらのほうは纏まりがあってうっとりしてくる。まさに「眠くなる」のです(笑)。インターネットもやはり二つのあり方があって、ひとつは複雑に分岐していく方向のネット、もうひとつは全体としてのネット。この対比的な派生が見られるのではないかと思うのです。
先ほど安田さんは調和のためには「勘」が大事だと言いました。勘というのは、まさに有機体の変化に対してつねに震えているアンテナのようなものです。そこで思い出すのは、神経医学者のヴィクトーア=フォン・ヴァイツゼッカーが、生命の定義を「相即性」(コへレンツ)に見出していたことです。つまり、主客は分割不可能であり、つねにひとつのユニットを組み(相即し)ながら、全体としての有機性を成している。自分だけでも、他者だけでも完結しない、この相即性こそが生命なんだと。士郎正宗さんはアーサー・ケストナーの『機械の中の幽霊』に影響を受けたそうですが、そのケストナーが影響を受けたのがベルクソンですよね。ベルクソンも、生命を「時間の分割不可能性」によって定義しようとした哲学者です。
思想的に言うと、いまのGAFAが好みそうなコスパ至上主義的な情報化社会と決定的に違うのは、こうした有機性に対する認識の有無でしょう。なぜならコスパというのは、未来(目的)と現在(手段)とを分割したうえで、その未来に最短距離で到達しようというものだからです。しかし、私たちはそんなふうには生きていない。ある流れの中に入った瞬間、分割不可能な運命を享受せざるを得ない。その感覚をどうにかして取り戻さないと、私たちは自身がキムのような、単なる「人形」になってしまいますよ。
安田昔、プレイステーションのゲームをつくったとき、非常に分厚い仕様書をつくらされるわけです。そこにはユーザがどんなことをしうるかというパターンが書かれていて、つくった人間の頭の中で遊んでもらうのがゲームだとしたら、その仕様書はある種の俯瞰図、パースペクティブな西洋庭園のようなものでした。対して、駒込の六義園や江戸時代の地図というのは俯瞰ではなく絵巻物、つまりウォークスルー型です。
僕が現時点でのAIについてひとつ気にくわない点があるとすれば、それは「つねに先に進むこと」です。いまのAIは、それをつくった人間の俯瞰的な視点から「If and Then」の文法──「If」によって従属節を明確にすること──によって、均一的な時間の流れの中で進んでしまう。これが日本語であれば、「明日、雨が降ったらデートは中止ね」という会話は、「明日、雨」と言った瞬間に相手の顔が曇れば、すぐさま「明日、雨、なんか降るわけないよね」と変化させることができます。どんどん先に進まずに、戻ったり、行ったり、あるいは伸びたり、縮んだりする、そうやって時間と付き合うことができる。もし、従属節そのものが変化するようなプログラミング言語ができたら、面白いと思います。
浜崎新井紀子さんの「東大ロボ」研究ってご存知ですか? 「AIは東大の入試に受かるか、受からないか」みたいな研究なのですが、結論からいうと、彼女は「受からない」という答えに辿り着きます。数学や歴史や英語など、ある程度まで論理的・情報的な教科は点数がとれるようなのですが、どうしても国語だけが偏差値50を上回らないという。というのも、いまのAIには三つの原理——論理、確率、統計——しかないからだと。これって結局、すべて「過去のもの」(止まっているもの)なんですよ。つまり、究極的にAIは、「調和」に向けて自分自身で生成変化し、べつの線を引くという行為ができない、という話です。
安田過去A点とB点を結ぶと、C点が見えるという。
浜崎俯瞰の論理というのは、まさに安田さんがおっしゃったような西洋庭園で、けっして絵巻物の経験をさせてはくれない。俯瞰は退屈で、ウォークスルーは驚きに満ちています。過去と現在と未来とをつなぎ合わせながら、そこに身体を有機的に絡めていく体験です。変わり続けるということ、その変化を自分の中に蓄積させていくというのは、自分が取り替え不可能な実存であることの実感を蘇らせます。
甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》三重県、2019
「新しいもの」の引き受け方
新しいテクノロジーをどう迎え入れるか、それによって社会がどう変化していくかというのが《攻殻機動隊》シリーズの主要なテーマのひとつだと思います。近代以降の日本はある意味、過去を「切る」ことで新しい技術やそれに伴う社会の変化を容認してきました。それはいまの日本の常套的な「やり方」と言ってもいいかもしれない。しかし当然、過去のものにこだわったり、懐かしんだり、残そうと努力したりすることもあり、その心情が文学や芸術で繰り返し表現されてきました。その絡み合いを、お二人はどう見ていますか。
浜崎少しだけ私の専門の話をすると、そもそも保守思想は、右翼や伝統主義とは違います。カール・マンハイムによれば、「伝統主義」とは何か新しい変化があったときに、それに後ろ向きになること。言い換えれば、どんな変化もイヤだと脊髄反射的に拒絶する態度です。そして、これを過激化し、さらに理念化していったのが右翼です。では、保守とは何かというと、伝統主義や右翼とは違って、近代以降の社会的変化を引き受けながら、しかし、その速度が加速することを警戒し、それに抵抗する思想なんです。
それは例えば、「形而上的な真理」を拒絶しながら、19世紀以降の「新しい真理」のあり方を見出そうとしたプラグマティズムの思想と似ています。ウィリアム・ジェイムスは、それによって「最小の動揺と最大の連続性」が成り立ち、調和が保たれ、見晴らしがよくなるもの、それが「プラグマティックな真理」だと言いましたが、僕はこれこそ保守思想の原理だと思います。でも、戦後も含めた近代という時代は、何においても未来、進歩、先に向かって邁進することを価値にしてきました。これでは動揺が激しくなるのは当然です。変化を引き受けつつ、その動揺をどう治めるかを考えるべきなのに、そうなっていない。『イノセンス』という作品は、そういう主題を提供してくれる作品じゃないかとも思います。
IT産業の急速な発展が既存の産業をダメにし、中間層を没落させてしまったという言説は、世界中のどこでも見受けられます。それに伴うアイデンティティ喪失の問題や、ゆえにローカルな価値観への結びつきを求めるようないまの状況も、一連の話の補助線として引けるのかもしれません。
安田「最小の動揺と最大の連続性」というのは非常に面白いですね。私は能の世界に成人してから入りましたが、能の世界というのは動揺が非常に小さい世界だということによく驚きます。今回の新型コロナ騒動もそうですし、変化というものは淡々と、そして積極的に受け入れます。能という芸能は650年続きながら、しかしつねに変化している。古典の「古」は「固い」が語源で変化しないものだとすれば、伝統というのはやはり「伝える」こと、そしてそのために変化することが求められています。私がインターネットを始めたのは1991年ですが、その少しあとに能の楽屋では、多くの人はみんなインターネットの話をしていましたし、大正生まれの金春惣右衛門師は太鼓の手附をコンピューターでつくったりしていた。
浜崎自分の足場がしっかりしているから、新しいものに対する余裕や柔軟性が出てくるんですね。対して、高度成長世代というか、全共闘世代にその足場はない。新しいものに振り回されてきたからこそ、押井守さんは、逆説的にそれを主題にせざるをえないかたちでSFをつくってきたんじゃないかな、とも思えます。
安田私はいま67歳で、3歳のときの私と見た目はまったく違いますけど、安田登であることは変わらない。これがおそらく「伝統」です。よく周囲から「これからの能楽界で変えてはいけないものはなんですか?」なんて訊かれますけど、そのようなことを頭で考えてはいけない。なぜなら、能楽師がする限りは能であり、変わるものは自然に変わるし、変わらないものは変わらない。
浜崎僕は落語が好きなのですが、落語って反復ですよね。それは授業にも似たところがあって、毎年同じ授業を反復しているわけです(笑)。でも、その繰り返しの中に大きな基礎ができてきて、すると、ちょっとした差異に敏感に反応できるようになる。まさに「差異と反復」が循環するわけですが、その逆に、新しいものだけを求めると、基盤がないので微細な差異が見えなくなり、単に個別的なものがポンポンある状態で終わってしまう。目の前の出来事が本当に新しいのかどうかすらわからない。「最小の動揺と最大の連続性」が保たれていればこそ、私たちは、「新しさ」を味わうことができるんでしょうね。
「優雅さ」が継承するもの
浜崎安田さんは戦後の高度経済成長を体験されていて、それこそGDPで言えば10%動くような時代です。5年前まであったものが消えて、5年前までなかったものがあっという間に普及する、そうやって風景が目まぐるしく動いている時代に、奇跡的に能に出会ったわけですよね。それに比べると、変化の少ないいまの若い世代のほうが伝統芸能には入りやすい気もするんですが、そのあたりはどうお考えでしょうか?
安田学校行事で能舞台に連れて行かれたりすると、99%の人は「もう観たくない」と答えるそうです。しかし、小学生向けに能のワークショップをすると、ほぼ全員が面白かったと言います。この違いは、ひとつは会場の大きさと構造の違いだと思います。能を面白いと感じるのは、ストーリーではなく圧倒的な生の身体性を感じるからです。身体性というのは、身体から出る「気」のようなものも含めたものを言います。
しかし、能舞台というのは、お客さんに生の身体性が伝わらないように、おそらくはわざとつくられている。それは、能が自律的な(autonomy)芸能だからです。お客さんがぼんやり見ているときは面白くも何ともなく、自分で舞台に意識を飛ばしたときに初めて面白く感じられるように設計されている。しかし、学校行事で能舞台に連れて行かれた生徒たちは、授業の一環ですから他律的です。ところが、ワークショップというのは能楽堂よりもずっと狭い部屋で行いますし、他律から自律に変換させるような行い方をするので、身体性がモロに伝わる。
浜崎伝統芸能を知識や頭で理解しましょうとなるとまるでダメだけど、そういう感覚をもてる場所と空間(文脈)さえ整えれば、一瞬でその世界に入り込む能動性が生まれてくるということですね。
安田はい。そして、ワークショップをするときに私がもっと重要だと思っているのが、「これをすることで、この子どもたちが能を観にくるようになってほしい」なんて考えては絶対にダメだということです。私は、ただそれを懸命に「する」ことが大事なんです。そこに目的とか打算などを入れてはいけない。
浜崎なるほど、それも授業と同じです。自分が圧倒的に充実した状態でいられるか、それさえ実現できれば、出席なんて取らなくたって学生たちは授業に出てきますよ(笑)。例えば、これも福田恆存の言葉ですが、「人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。さうしないと、パンさへ手に入らなくなる」と彼は言うわけです。つまり、「パン」のことを気にしないほどに強度のある身体を示し、それを贈与することさえできれば、素直な身体はちゃんと反応するものなんでしょうね。
安田パンをパンとしてしか捉えることができなくなったときに、人間は人間ではなくなりますね。人間がAIに取って代わられるという話がよくされますが、それはAIの進歩より先に人間の退化によって起こるのではないかと思っています。先日、あるコンビニで「Aはありませんか?」と質問したんです。すると店員さんは「Aはないけど、Bならある」と言った。これってスゴいことでしょう。当たり前といえば当たり前ですが、いまはこれができない店員が増えている。
浜崎AIのようなコンビニ店員というのは「滑稽」を通り越して少し「不気味」ですね(笑)。そういえば、ベルクソンは「滑稽」を加速したところに現れるのは「不気味」だが、その反対にあるものこそ「優雅」だと言っていました。物質と記憶が生き生きと循環している身体、そこに「優雅」が現れるんだ、と。
例えば、宝塚の舞台にすごく急な大階段が出てきますよね。普通、あんな急な階段は一段ずつ気を付けながら降りるしかない。しかし彼女たちは、スッと前を見たまま、まるでそこに階段がないかのように──物質がないかのように──優雅に階段を降りていく。物質と精神が、身体の中で見事に溶け合っている状態です。でも、仮にそこで転んだりすれば、ドッと笑いが起きる。なぜ笑いが起きるかというと、転んだ瞬間に優雅さが消失して、身体が物質に還元されて滑稽と化すからです。でも、それに対して「おまえは、物質じゃないんだから!」というツッコミが入っているあいだはまだマシです。ツッコミも入らずに物質化した状態が続くと、やがて、それは「不気味」に変わっていきます。
そう考えると、最近、人間が不気味になっているという状況は、人間が物質化しているということと、つまり、適切なツッコミもなければ、己の生命力を蘇らせる手掛かりもない、というような不条理な状況と関係しているのかもしれません。
ちなみに、個人的な話で恐縮ですが、私はずっと「学者」なんていう滑稽なものには死んでもなるまいと思っていたんですが、しかしなぜかいま大学の教壇に立っている(笑)。でも、それは、もしかすると自分の師が、教壇の上で優雅に振る舞っていたことと関係しているかもしれません。ベルクソンにとって、優雅は自由の異名ですが、こんな自由があるのかと、私はその身体に魅せられてしまったんですね。
甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》三重県、2017
神聖性──自然に仮託される身体
浜崎さんの主題のひとつは現代社会の空虚さ、つまり人生の意味を支える装置=神の不在を扱うものです。そこからシリコンバレーを眺めると、人間の進歩の先、無限の先に何か理想的なものを見てそこに到達したいという、キリスト教的な構図があるようにようにも映る。一方で、安田さんの足場である能は、身体による振る舞いの中に霊性を、周辺の自然環境の中に神を見ようとするものです。キリスト教的な、身体を捨てた情報や観念に神聖性を感じるのか、あるいはその場の儀礼も含めた身体の振る舞いに霊性を感じるのか、この違いについてはいかがでしょうか。
安田能は、基本的に舞台上で人が亡くなっても終わりません。亡くなったかどうかはそのときにわからないので、倒れたときと言い換えたほうがいいかもしれませんが、そのときの作法もあらかじめ決まっていて、最後まで演目を続けます。つい先日も舞台上で笛方が、亡くなったということがありました。戦前はそういうことはたくさんあったらしいのですが、戦後は少なくなりました。
浜崎その話は、安田さんの本で読んだことはありましたが、それは、つい最近もあったことなんですね。驚きです。つまり、それは舞台の上で老衰して亡くなったと理解していいのでしょうか。
安田例えば「今日はちょっと体調が悪いから」と思っても、舞台を休もうなんて思わない。周囲も「もう年だからやめたほうがいい」なんて言わない。全力を出し切って舞台で倒れる、言葉にすれば「神的なつながりによって」ということになるんでしょうけど、しかしそのように言語化したときに明らかな違和感は残る。神というわかりやすい存在ではなく、もっとすごく大きなものといいますか、「神」などと言うと、どうしても嘘っぽくなってしまう。
浜崎なるほど「神的なつながり」ですか。宣長は「日本の神」を定義して、「可畏き物を迦微(カミ)とは云うなり」と言いましたが、それは言ってみれば、「意識化できないもの」「自分の知らない自分」への畏れのことではないかと考えています。というのも、私たちは、自分の身体も含めて、いまユニットを組んでいる全体を意識化することはできません。要するに、自分の中にあるエネルギー(ゴースト)は、最終的にコントロールが効かないのです。このことを私たちは「カミ(神)」と呼んできたんじゃないか、と。
精神科医の木村敏は、かつて「自然」という言葉を分解して、「おの(己)ずから(柄)」と、「み(身)ずから(柄)」が重なったところに然らしめられたものだと語っていました。「己ず柄」は己に与えられたところの性格(受動性)、「身ず柄」はその力を身体に落とすこと(能動性)。つまり、受動と能動が重なる場所に身体があり、それを「しからしむる」のが「自然」であると。この「自然」を私たちは「神」と呼んできたわけですが、このことはけっして東洋に限られる話ではなくて、スピノザや、ベルクソンや、ハイデガーがそうであるように、結局は西洋人にとっても普遍的な問題なんじゃないかと思います。
安田古典で自然といえば「季語」ですが、この季語には、いまおっしゃった「受動と能動が重なる場所」としての身体が、ネイチャーとしての自然と感応するための装置として役割を与えられています。私は、引きこもりの方々と一緒に、俳句を読みながら奥の細道を歩くということをしていますが、非常に複雑で過酷なバックボーンを抱えている方が参加されたことがあります。その方は、最初はまったく句をつくることができなかったのですが、あるときに句がつくれるようになった。それも自分の過去を詠んだ。これは五・七・五がもつ定型の力によって、自分のことを見つめることができたからだと言いました。しかし、その方の句には季語がない。それを指摘しても、なかなかうまく季語を入れることができなかった。
しかし、ある日、ものすごい大雨に見舞われて、その後、それが嘘のように晴れ渡りました。すると翌日、季語が入った素晴らしい句を詠んで、数十年ぶりの笑顔が戻ったのです(ご本人の希望でその句の紹介はできないのですが)。その方が言うには、季語を詠み込むことによって、過酷な自分の過去の一部を自然に仮託することができた。しかし、それが雨によって、自分の内部に侵入してきて、とてもつらかった。が、その後に雨があがったことにより、自分の心も突然、晴れ渡ったのを感じた、というのです。これは過去の経験によってつくられた「おの(己)ずから(柄)」が、歩いていくうちに変容してきた「み(身)ずから(柄)」と、ネイチャーとしての自然によって「しからしむる」ことができた、ひとつの例なのではないかと思います。
浜崎面白いですね。私は学校時代、季語を必ず入れなければならないという俳句のルールがどうしても鬱陶しく感じられたのですが、芭蕉なんかを学ぶと、いま、安田さんがおっしゃったような体験へと導くための工夫だったようです。たとえば、五・七・五・七・七の短歌だと、最後の七・七で心情を読んでしまうから、どうしても「おまえ」の自意識が消えない。五・七・五だけでも、まだ「おまえ」が入る余地が残る。そこで、季語を入れると、ようやく、おまえの自意識を超えて、自然に仮託する態度が醸成できるんだ、と。
ちなみに言えば、これは日本の伝統感覚でもあります。唐木順三によれば、日本の美的感性は「数寄」(好き)から始まると言われていますが、それは結局、「おまえ」の趣味です。そこから吉田兼好は、その単独性を徹底して「すさび」へと進みますが、しかし、それはニヒリズムと接してしまう。そこで、日本の芸能に明るさをもたらしたのは誰かというと、道元だと言うんですね。道元は『正法眼蔵』の中で「自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(自然)に証せらるるなり」と言いましたが、これは自分が自然とつながっていく感覚でしょう。この感覚を芸能にもち込んだのが世阿弥だとすれば、文学にもち込んだのが芭蕉。まさに、一人の人間の身体が自然に開かれていくプロセスと重なります。
安田そうなんです、能がわかってはじめて芭蕉がわかるし、芭蕉がわかると能もわかってくるんです。
コレクティブさを失った現代の言葉
能は恨みや殺し、亡霊が蘇るといった題材を扱いますが、しかし澄み切った境地に人を導く力が明らかにある。そこで私は最近、サブカルチャーにおける能の扱われ方に興味をもったのですが、例えば『すずめの戸締り』という新海誠監督の大ヒット映画も、能を取り入れた物語です。文学の世界では夏目漱石もそうで、何か日本が大きく変動しようとしている、あるいは変化してしまった時代に、何か大事なものを喪失してしまう恨みや悔しさと向き合うという課題の中で、能が参照される、必要とされている向きがあるんじゃないか、と考えたりします。社会全体の変化の中で、何か浄化作用をそこに見出している。そういうふうには考えられないでしょうか。
安田芭蕉もそうだし、江藤淳もそう。能が現れる時期というのは、たしかにあります。
浜崎カントは『判断力批判』の中で美についてこう言うんですね。「人が花を美しいと感じるとき、それは非常に主観的な感覚であるはずなのに、自分だけが美しいと思う人間は一人もいない」と。彼はそれを矛盾だと言うんですが、私に言わせれば、それはカントの出発点のほうが間違っている。つまり、個々別々の主観が、にもかかわらず同じ感覚に包まれるから矛盾だと言うんですが、しかし、そもそも同じ川の流れから発生してきた個人が、美を介して、同じ川に戻ったのだから同じ感覚をもつのは当然です(笑)。
福田恒存も『芸術とは何か』の中で「芸術とは自我意識の浄化だ」と書いていますが、まさに「美」とは、私たちが自我意識に固着してしまったとき、それを浄化して、再び私たちを川の流れ、つまり、故郷(全体)に帰らせてくれるものなのではないかと思うんです。だからこそ、アート体験は私たちを元気にする。
安田もし人間がいま、そのようなコレクティブな感覚を失っている、あるいは求めているのだとすれば、そこには言語が関係しているように感じます。例えば「かなしい(かなし)」という言葉は、「悲しい」という現代語の意味においては個人的な「過去」と関係してきます。しかし、「かなしい」は古語の意味においては「かわいい」という美的な感性と関係している。ここに赤ちゃんがいれば、多くの人は「かわいい」と思う。「かわいい」はコレクティブな語です。
もしかすると言語というものは、時代が進むとともにコレクティブな意味を失って、より個人的なものへと変化していく傾向があるんじゃないか。ハワイ語には「ウーラーレオ(ʻūlāleo)」という言葉があって、これは死んでしまった人とつながるための霊的な声のようなものです。多くの人がその声を聴く。ハワイ語のように独自な文字をもたない言語の中には、現代でもコレクティブな意味を保った言葉が多く残っている。そう考えることもできるのかな、と。
浜崎いまだに誤解が多いですが、福田恆存の「歴史的仮名遣い」の擁護も、まさにそれなんですよ。国語国字改革運動の背後には功利主義と近代合理主義がありましたが、まさにそれこそ、言葉のコレクティブ(有機性)をすべて切断していくというイデオロギーでした。彼はそこにこそ抵抗したわけですが、しかし、同時代の人々も、後世の人々も、それを「保守反動」の戯言として糞みそに叩きました。
安田先ほども話したように、能の場合、舞台にいる人たちはみな別々の流派に属しています。全員が「個」なのです。全員が「個」であるからこそ「和」が可能なのです。例えば、どこか地方で舞台があったとしても、みんなで一緒に行きましょうとは言わない。みんな別々に電車に乗って向かう。コレクティブなんだけれども「集団」でもないし、「全体主義」でもない、というような状態と言いますか。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』では、まさに「スタンド・アローン・コンプレックス」という概念が提示されます。
浜崎「全体主義」は英語で「totalitarianism」と言いますが、文学者のD・H・ローレンスは、第一次大戦から第二次大戦までの「totalitarianism」運動に対して、「wholeness」(全体性)という言葉で抵抗していました。ケストラーの『機械の中の幽霊』の言葉で言えば「holon」ということになるのかもしれませんが、この、全体性に媒介されながら個人として自立するということと、自立していないがゆえに集団で群れるというのはまったく違っていて、その二つをきちんと区別する必要があると思います。この区別の自覚がないから、個人主義が強調されればされるだけ、集団で群れやすくなってしまうんです。
安田「holon」は「health」の語源でもありますからね。
甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》岩手県、2019
目的から逃れるための「三昧」
能が実践しているような集団感覚を私たち、現代の都市生活者は失ってきているのかもしれません。狩猟採集時代における集団性にまで遡れば、そこにおける自律した個と集団の緊張感や連携、意識を張り詰めることで環境に「兆候」を読むような感覚があったかと思います。それはAIには難しい。そのような能力を人間が鈍らせて、流転し続けるこの自然と世界と社会の中で長く生きていけるのだろうか、と心配になります。ところで、ADHDをもつ人たちが、能を集中して観ていたというエピソードに、考えさせられるところがありました。
安田発達障害をもつ小学生や中高生たちとワークショップをやったり、稽古したりする機会が多いのですが、彼ら/彼女らは、稽古のあいだの2時間くらいは、きちんと座って取り組むことができたりする。しかし、学校に行くと、授業中に座っていられなくなって、保護者が先生から呼び出されたりする。そうすると、学校というシステム自体に問題があるのではないかと思うようになります。そして、「稽古」の可能性を、もう一度考え直したいとも思っています。世阿弥も「稽古」という言葉は使っていますが、いま一般的に行われている「稽古」は江戸時代ごろに始まり、それもまた時代とともに変遷してきている。それで、最近はいとうせいこうさんやドミニク・チェンさんらと一緒に、「稽古」について考え直そうという活動をしていたりします。
先ほど、ヴァレラの『The Embodied Mind』について少し触れましたが、彼は本の中でマインドフルネスについても書いています。しかし、いま世の中で使われるマインドフルネスって、ちょっと胡散臭いというか、嘘っぽい感じがしませんか。本書を訳された田中靖夫氏は、これを「三昧」と訳された。これは素晴らしい訳ですね。いま取り組んでいることに完全に没入しながら、かつそれを観察している自分がいる状況、それが「三昧」です。
浜崎「没入しながら観察する」というのは、人間にとって本来的な平衡感覚ですよね。いま私たちは、たしかに対話に没入していますが、同時に互いの距離感も考えているわけです(笑)。これを福田は「醒めつつ踊る」と言いましたが、それは役者に典型的です。踊っているだけでは狂気ですが、それがどう観客の眼に映っているのかを見極める必要がある。「三昧」が、そこに関わっているということですね。
安田ヴァレラはまた、自分が観察する立場にあったとき、自分がいなくなってしまうんじゃないかというリスクについても考えているんです。そこで、その答えを仏教に求め、そして「三昧」に辿り着く。
浜崎なるほど、例えば道元も、修行における「作務(さむ)」を重視しますが、あれらもすべて「三昧」ですよね。掃除・洗濯・炊事などに集中しながら、「醒めつつ踊る」方法を身に着ける。そこで重要なのが「反復」です。というのも、反復の中で「目的」意識が消えていくからです。人は、目的(未来)に囚われるから焦燥し、焦燥するから煩悩に弱くなってしまうわけですが、だとすれば「いま・ここ」を徹底することによって、自分の外にある「目的」を消せばいい。実際、掃除・洗濯・炊事という反復的行為に大きな目的(目標)が入り込むことはありませんし、その行為自体が目的だといってもいいわけです。
安田海外公演に行くと、いろんな装束や荷物が多いので、たまに忘れ物をしてしまうことがあります。あるとき師匠にチェックリストをつくりましょうと提案すると「ダメだ」と言われてしまいました。師匠曰く、チェックリストというのは自動化することだ、と。つまり、反復と自動化は違うわけです。装束を出すという行為は「反復」でも、ひとたびチェックリストによって管理しようとすれば「自動化」することになる。最初、私はその意味がまったく理解できなくて困りました。
それと私はいま67歳だという話をしましたけど、先輩の方たちに話を聞くと、70歳を超えたあたりからセリフが出なくなるというんです。ところが、そこで辞めてしまってはダメで、それでも続けているとまたセリフが出始めるという。記憶の回路が変わるかららしいのですが、いまから楽しみです。
身体・かたち・心
当然、仕事には目標があり、それによって成果が測られる世界で私たちは生きています。一方、最近は能力主義が問題視されます。能力がないと見做された人たちの生命や尊厳が軽視されるからですね。いまのお話を聞いていると、身体のある反復的な存在として人間を捉え、「いま・ここ」を尊重することができれば、ある種ケア的な、人間や動植物などを水平に肯定するビジョンを示すことにもつながるような気がしています。
浜崎先ほど、安田さんから記憶の話が出ましたが、それは「水平に肯定するビジョン」ともつながっているような気がします。これはテレビで観て驚いたことなんですが、20代の頃の思い出を聞いても、何も思い出すことができなかった90代のおばあちゃんに、若い頃に流行っていた音楽を聴かせると、なんとその途端、ブワーッと当時のことを話し始めたんです。まさに「記憶とは忘れているように見えて、有用性の概念によって蓋をして塞いでいるだけで、じつは、持続しているんだ」というベルクソンの言葉を思い出させます。ベルクソンは、死ぬ前に見る走馬灯を例に挙げていますが、生きる目的や有用性に気を遣わなくなった瞬間、概念の蓋が取れて、記憶がブワーッと溢れ出してくる。そこに能力差はありません。
安田謡曲には「おもひでは身に残り昔は変り跡もなし」という詞章がよく出てきます。日本語の「おもひで」は文字通り「思い」が「出る」こと。普段は記憶に蓋をしていて、しかし松を見たり、歌ったり、舞ったりすると、その蓋が外れて出てきてしまう。そういうものが「身に残って」いる。
先ほど浜崎さんが『イノセンス』の中で世阿弥の「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」について話されていました。この言葉は『花鏡』からの引用で、「万能綰一心事」という章に書かれています。「万能(まんのう)」を「綰一心事(いっしんにつなぐこと)」なので、心ではなく「わざ(技)」が先にある。ベースにあるのは、やはり身体だということです。
ちなみに余談ですが、キムの館の壁に描かれているこの言葉の漢字が、あるところでは「落落磊磊」ではなく「楽楽磊磊」になっています。映画の中でここだけ、そのように描かれている。これはもしかすると、「糸=心」が切れて落ちるのではなく、それによって「らく(楽)」を得るんだというメッセージを言いたかったんじゃないでしょうか。
浜崎「心ではなく、わざ(技)が先にある」というのは、本当にそうだと思います。私の最初の本は、『福田恒存 思想の〈かたち〉』というんですが、思想というのは「わざ(技)」や「かたち(形)」なんだということをどうしても言いたかった。なぜなら言葉そのものが「かたち」だからです。そして、私たちは、その「かたち」を通じて人間の心を読み取っている。そうであるにもかかわらず、近代人は内面とか、心とか、最近では脳とか、目に映らないものに気を取られて、すべてをそこに還元しようとしてしまう。
そもそもデカルトの言う「疑っている私は疑えない……という私」は、目に見えるかというと見えない。これに反旗を翻したヴィトゲンシュタインは、だからこそ、すべては言語ゲームだと言って、まさに「かたち」の流れから世界と人間を読もうとした。その点、近代の妄念を乗り越えようとした20世紀の現代思想というのは、じつは、日本思想の蓄積と非常に重なる部分があるんじゃないかと考えています。
例えば、思想の「かたち」を礼儀などに見ましたよね。例えば、悲しんでいることを表すためには、きちんと葬式に行って、しかるべき格好をする。要するに型ですよね。形式を通じてある心を読み取ろうとする。「本当に悲しんでいるのだろうか」という無限の懐疑をいったん停止させる装置して、儀礼や型を捉えようとした。
浜崎ただし、礼儀は、虚礼に堕してしまうとダメなんです。虚礼に見えた瞬間、その心を疑えてしまうから。「型」は、それが真に生きられてこそ、意識の無限後退を止めることができる。そして、そこに確信や自信を産み出すことができるんです。それは言葉遣いにしても同じでしょう。「敬語」をルールと捉えた瞬間、それは不自由の代名詞になりますが、それを他者との距離を測るための「型」とみなした瞬間、それは自由のための道具となる。要するに、その〈言葉=型〉によって他者との距離を測りながら、そこに有機的な調和をつくっていく。その中心にあるのが身体であり「かたち」なのではないでしょうか。
安田能でも型はとても大切です。演劇のスタニスラフスキー・システムでは、役をするときには、自分の過去の感情を思い出すようにいいますが、能は幽霊を演じるわけですが、誰も幽霊になったことはないので思い出せない。ところが、教わった型をやっていると、自分は幽霊を体験したことはないのに、なんとなくその気持ちがわかってきちゃったりする。これがお客さんにも伝播し、自分の中にも出てくる。そのことで、むしろ自分の心が動いていくという、そういうものでもあるんですね。
甲斐啓二郎《綺羅の晴れ着》岩手県、2018
やすだ・のぼる/1956年、千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。
はまさき・ようすけ/1978年生まれ。文芸批評家。京都大学大学院特定准教授。東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了。博士(学術)。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉――イロニー・演戯・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文芸春秋)、『シリーズ・戦後思想のエッセンス 三島由紀夫――なぜ、死んでみせねばならなかったのか』『小林秀雄の「人生」論」(以上、NH出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社)など。編著に福田恆存アンソロジー三部作『保守とは何か』『国家とは何か』『人間とは何か』(文春学藝ライブラリー)がある。